主の祈りについて

主の祈り


  私たちは皆よく聞くには相手をしっかりと見る。 だからキリストが光りについて話す時、どの様に聞くかも話し、ルカ818節には「どの様に聞くかよく注意しなさい」と書かれている。

   弟子達はイエスの祈り方、祈りの姿を見、更に彼らはどの様に祈ったらよいかを知る為にキリストに聞こうとする。 イエスは前の箇所で「光は秘められたもの、秘密を明らかにする」といわれ、ご自分の弟子たちに今まで父なる神と自分の間にあった秘密をゆっくり啓示しようとしているが、 自分自身のすべての秘密、自分の存在の秘密、神のついての最高の打ち明け話であると同時に、弟子達が彼とともに神の神的な美しさに入るように誘う。 ルカ817節で、「隠れているもので顕わにならないものはなく、秘められたもので人に知られず、公にならないものはない。」と述べられ、どう聞くべきかに注意しなさいと言われる。  イエスは御父をイエスだけがお出来になる方法で啓示されるが、それには彼の愛に留まっていなければならず、彼から離れてはならない。 ヨハネ154,5,15節で「私に繋がっていなさい。 私もあなたに繋がっている。・・・私を離れてはあなた方はなにも出来ない。・・・私はあなた方を友と呼ぶ。 私が父から聞いた事をすべてあなた方に知らせたからである。」と述べられており、キリストは秘められたものは何時か公になると言われる。主の祈りがまさにそれである。

   ルカ11章1節で弟子達は主に「主よ、洗礼者ヨハネが自分の弟子に教えた様に私たちにも祈りを教えてください」と願うが、彼らにとってその願いは自分がキリストの弟子だという特別な祈り方を受ける事であった。 つまりキリストの後を歩もうとしている人がこの祈りを唱えると、自分がキリストに属しているという明白な印になると思った。 しかしイエスはこの種類の祈りを望まず、 マタイ667節で「あなたは祈りたい時、自分の最も秘められた部屋に入ってドアに鍵をかけ、ここで秘密の内に父に祈りなさい」といっている。 だから弟子達の公に祈りたい望みと並行して、キリストの考えでは 祈りたい時には 秘密の内に祈るという意見がある。

   しかしながらキリストは弟子達の望みを拒否せず、むしろ自分の存在の秘密のすべてを彼らに引き渡そうとし、彼らが皆、神にむかって父と呼びかけるように教えようとする。 丁度キリストだけがその名を言うように・・・ これは「愛に留まりなさい。 私が父を知っているように、あなたも同じ愛に生きる知識を受けるように」ということと関係がある。 キリストだけが神にむかって「アッバ、父よ」という言い方を知っており、その祈り方には特権があって、これを祈る人が特別な権能、力、責任を受け、キリストの最も深い生き方と一瞬の内に結ばれる。 ヨハネ1014,15節で、「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。 父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」と言われている。

                  

父とイエス

   キリストが聖霊によってある時祈った。 「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべての事は父から私に任せられています。 父のほかに、子がどういうものであるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには誰もいません。」(ルカ102122節) ここでイエスは父との唯一の関係、透き通った愛の関係に生きている事を教える。 父が彼にすべてを完全に与え、彼は父からすべてを受けた。 すべて、つまり彼は、神の愛の計画、救いの計画を使命として告げ知らせると同時に、自分のすべて、つまり彼の神の子としての存在をも示そうとしている。 イエスは特別な知識によって、父なる神しか知らない父のことを知っており、そしてキリストは同じ様に、子にしか属さない妨げのない知識によって自分の父を深く知っている。 ヨハネ15章には「父が私を知っているように私も父を知っている」と書かれているが、もし神がこれを啓示しなかったら、もしキリストがこれを伝えなかったら、私たちには神の神秘であろうと、キリストの神秘であろうと到底理解できない。

 
   そこでキリストが教える祈りによって私たちは一歩、一歩その神秘の中にはいる。 しかしキリストの祈りが教えたように私たちがとても小さく謙遜に留まらなければ、天国の秘密を受けられない。 天国、神の国の秘密とはその名が聖であり、父の意志、み旨、神の支配が行われる事である。 父と子を知る事によって私たちは神学的な知識を受けるのではなく、この啓示を受けとめる人を圧迫するすべてのものから解放される。 「重荷の下に打ち砕かれている人は、私の所に来なさい。 休ませてあげよう」と言う言葉が聖書に書かれているが、神への知識の中には人間の解放の秘密があり、子のように神を愛する事によって、人間は誰であろうと神の子の自由に生まれ変わり、父の名の中に神の御姿に象って造られた人の名も書かれている。

  
 父と子の知識とは、単なる知識ではなくて人間の解放が含まれており、人間は自分が子であると分かると自由になる。 すでに言った様に、父なる神の名の中には神に似ている人の名が書かれていて、キリストの祈りとともに私たちは救いの時に入り、エレミヤの預言がここに実現される。

 
  「私は思っていた。『子らの中でも、お前にはなにをしようか。お前に望ましい土地、あらゆる国の中で最も麗しい地を継がせよう』と。 そして思った。『わが父と、お前は私を呼んでいる。私から離れる事はあるまい』と。」(エレミヤ319節)

    つまり、お前を私の子とする為に何をしようか。 一番綺麗で豊かな国を与えようか。 あなたが私を父と呼んで欲しい。 そうしたらあなたは二度と私から離れない、と言う言葉であって、このエレミヤの預言の中で主の祈りが実現されている。

                                 


私たちの父-アッバ

   主の祈りはイエスの祈りであって弟子の祈りではないので、典礼は私たちがこの祈りを信仰と尊敬をもって捧げる様に招く。 謹んで主の祈りを唱えようと言い、神に向かってこんな祈りを言うには私は相応しくないので、勇気が必要である。 私のうちに私と共に祈っているイエスと一緒に私たちは神にむかってアッバ、父というが、聖書でこの言葉で始まる祈りは全くなく、例えば150篇の詩篇はこんな風に始まっていない。 これはキリストの自分の父に向かう特別な祈り方であって、キリストは12歳の時、すでに神にむかって父と言い、私が父の家にいることをあなたは知らなかったのですか?と母に言う。(ルカ249節) 死ぬまでキリストは何時も父という言葉を使い、「父よ、彼らを赦してください。何をしているか知らないからです」「父よ、私の魂をあなたの御手に委ねます。」(ルカ233446節)と言っているが、父はアラマイ語でアッバと言い、このアッバの中には慈しみと勇敢な委ねの気持ちが含まれている。 だから私たちは当たり前でない、この気持ちで主の祈りを唱えなければならない。

   パウロはギリシャ語で書く時、アッバという言葉をそのまま使い、彼が使徒から受けた事に対する忠実さを示している。 他の理由はギリシャ語ではアッバが持っているすべての意味とニュアンスを示せないからである。 特にキリストがアッバと言う時は特別なニュアンスがあり、パウロは「あなた方が子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださった事実からわかります」(ガラテヤ46節)と述べ、神が私たちの心の内に自分の子イエスの霊を送り、その霊が私たちの内にアッバ、父よと叫ぶと説明している。 聖霊ご自身がキリストだけが言える名前アッバを私たちも正しく言えるように助けられる。 だから私たちはイエスに向かって、「主よ、祈りを教えてください、祈り方を教えてください」と絶えず願う必要がある。 キリストと共に聖霊によって私たちは普通には言えない「アッバ、父よ」と言える様になる。 この祈りの利益は何であろうと自分に引き寄せる私たちが、その中心から自分を引き離して、他の人であるイエスの祈りの中に自分自身を入らせる所にあり、キリストのすべての願いを自分の願いとする。

   殉教者聖キプリアヌスはヨハネの福音の「言葉は自分を(キリスト)を受け入れた人、キリストの名を信じた人たちには神の子となる資格を与えた。」(112章)を説明して、「信じた人、神の子となった人はどうしても先づ第一に感謝すべきで、自分が神の子である事を宣言しなければならない」と言っている。 ではそれについてどうすればよいか?と言えば「天にある神を父と呼ぶ事によってである」であると・・・ この様にして私たちは父と言う度に神がキリストに与える答えを聞かなければならない。 「私の心に適う子、私の愛する子」と・・・

   神を父と呼ぶ時、私たちは確かに神の子で、神が私を理解し、神が私の言う事を聞き、私に何が必要かを知っていると確信する。

 
  神にむかってアッバと言うのは、神に自分の状況を納得させる態度の反対である。 私の祈りは口数が多ければ必ず聞き届けられる事ではないし、また意志なく無関心に習慣的に祈るのでもなく、信頼なく愛なく祈る事でもない。 私たちはアッバと言う時は、神に自分の状況を押し付けり、言葉が多ければ適えられるとする祈りではなく、確信なしに繰り返し、委ねと深い愛情なしに唱える祈りでもありえない。  キリストの祈りは私たちを裸にし、私たちは貧しい者となり、何も持たず、何も出来ず、故に完全な信頼を示さなければならない状態の中に自分を置く。 そして、神が憐れみ深い父であることを知り、自分がその父の愛する子である事をも知って、自分の心を大きく開き、キリストのすべての願いが私たちの為、すべての人の為、世界の為に私たちのうちに実現される事を確信させる。

 
  結局、私たちは兄弟的雰囲気の中や他の人と仲良くしたい状態でしか「私たちの父」と言う事が出来ないし、子としての神に対する関係はどうしても兄弟としての関係を思い起こさせる。 神は「私の父」ではなく、「私たちの父」である。 ここで「私たちの父」ということで私達は全く新しい神的で人間的な関係の中に自分をいれ、その関係は私たちにとって命の泉、喜び、分かち合い、赦しの泉となった。 いいかえれば、神との親密さの中に入るために、どうしても兄弟姉妹と共に神の子の共同体、神の子の家族を形作らなければならない。 この共同体、この家族は分かち合いのパンのしるしのもとに、又、お互いの赦しのもとに、さらに悪からの解放のもとに建設される。 パンと赦しと解放をキリストは共同体に必要なものとして願うように教えるが、これはすべての人にとってどうしても必要なものであり、神が私たちの父だからこそ、私達は皆の名によって考え、願い、祈るのである。

 



天の父

   天におられる父のイメージは、神が大きな雲の後ろに隠れているとか、私たちから遠く離れているとか、宇宙のどこかに消えているとかいう事ではない。 このイメージの意味は明白で、神がこの地上の現実をはるかに越えており、目に見える世界を超えているということで、創られた世界は父であり、神である方の一部分ではなく、神は全く違うものである。 天におられる父は私の世界でない状態の中におられ、神の神秘は遥かに人間を越えており、それは天と地が互いに離れているように、神と人間の距離は一番遠い惑星と地球の間の距離よりもっと考えられないほど離れたものだと言う事である。 神は目に見えるものと見えないもの、地のものと天のものとの創造主であるが、目に見えるもの、例えば人間、見えないもの、例えば天使など創られたものは何であろうと、完全に神を理解する事は出来ない。 それは神が創られたものを遥かに越えているからであるが、この聖なる神、全く違う方は私たちに近い方だから私たちは遠慮なく父と呼びかける。

   私たちが神について考える事や、時々印しを通して神を見分ける事を、神はいつも越えている。 また、創世記3231節に神を見る人は直ぐに死ぬと書かれており、マタイ58節では「心の清い人は神を見る」と書かれている。 神はご自分の神秘をも越えていて、神の霊だけが神の深さを探る事が出来、イエスはそれを私たちに啓示して、1コリント21112節には「人の内にある霊以外にいったい誰が人の事を知るでしょうか? 同じように神の霊以外に神の事を知るものはいません。 私たちは世の霊ではなく、神からの霊を受けました。 それで私たちは神から恵として与えられたものを知る様になったのです。」と言われている。 聖霊が神の深さを探るのは、私たちにとって見知らぬ世界であるが、同時に聖霊が私たちのうちにある深さをも探る。 聖霊がこの二つの淵、神の神秘的な淵と人間の中にある淵を探ってから、私たちが父のほうへ行くために橋となり、キリストと共に今度は私たちが父なる神の神秘を探る事が出来、キリストによらなければ誰も父なる神のところへ行けない。 ヨハネ1426節には「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる霊があなた方にすべての事を教え、私が話した事をことごとく思い起こさせてくださる。」と書かれている。

   神が天にいると言う事は、神が私から遠く離れている事ではなくて、むしろ私たちが神にもっと近い者となる為に、神に聖霊を送ってくださいと言うことである。 ここでナジアンスの聖グレゴリオの有名な祈り「すべてを超えるあなた」を伝えよう。

 すべてを超えるあなた、あなたについて歌えるのはこれしかないでしょう?
 どんな言葉で、どんな賛美の言葉であなたを語れようか?
 どんな言葉で説明できようか
? 私の考えで何がつかめようか?
 あなたは知恵を越えている。

 あなただけが言い表せられない方、
 しかし言われている事はすべてあなたから出たもの!

 あなただけが見知らぬ方、しかし考えられている事はすべてあなたから出たもの!
 被造物のすべて、言葉を話すもの、話さないものもすべてはあなたを宣言する。
 被造物のすべて、考えているもの、考えのないものもすべてはあなたを礼拝する。
 宇宙万物の望み、宇宙万物は嘆きつつあなたを捜し求める。
 存在するものはすべてあなたに祈り、
 あなたの創られた世界について考えるすべてのものも

 沈黙の賛美をあなたに捧げる。
 在るものはすべてあなたによって在り、あなたによる宇宙的な動きによって在る。
 あなたはすべての被造物の目的、あなたはすべて、しかし被造物ではない。
 あなたは一つの被造物ではなく、被造物を全部合わせたものでもない。
 あなたはすべての名を持つが、私はあなたをどんな名で呼ぼうか!
 名で呼べないのはあなただけ! 
 どの様な霊的な存在が天を覆う雲をこえてあなたと出会えようか?
 憐れみ給え、すべてを超えるあなた、
 あなたについて言えるのはこれしかないのでは・・・

   このようにキリストの名によって父にむかって祈る時、私たちは天と地の交わりを可能とする。 つまり聖霊が、組み合わせられないものを組み合わせる。 もしキリストが人間にならなかったら、これは不可能であった。 聖霊は人間になったキリストによって人間の神秘と神の神秘を一つにする。
 



あなたの名

   神の名は神秘で、私達の知恵はそれを理解できない。 神が自分の名を教えないのはその名は聖で、どうしても聖としなければならないからであり、もし神が自分の名を啓示するなら、神は自分の全てをどうしても啓示しなければならず、被造物は誰であろうとそれを理解できないし、被造物は自分を創造した者を説明も理解もできないように、生きている人は命が何であるかを説明できない。 神の名をどうしても知りたい人に対して、神は創世記3230節でヤコブに「どうして私の名を知りたいか?」に言われ、モーセについては出エジプト31415節で「私はある。」と、また「私はアブラハムの神、イザクの神、ヤコブの神」と言う。 また士師記1318節で神は「どうして私の名を知りたいのか? その名は神秘的である」ともいう。

 
  だから神は自分の名を教えるのを断る。 神の名は人間が所有するものではなく、神は人間の世話をする神でもないからで、偶像を礼拝する人は神の名を呼んで、自分の利益のためにその神を使うが、神は道具でもなければ、奴隷でもなく、全く違うものである。 また神の名をまじないの為に使う事も出来ず、もし人間が神の名を知っているとしたら何回も使って神を試すような危険があり、神に奉仕するより神を自分のしたい事の実現の為に誘惑する可能性がある。 故に人間は神の名を所有出来ない。 しかし神は自分が誰であるか言わないが、何をするかをはっきり教える。 神は創造主、救い主、牧者、避難所、岩であり、自分について神が話すとき愛、慈しみ、憐れみ、赦し、平和、忍耐、豊かさ、喜びと言う。 また神は「私は唯一の神、他に神はない」とはっきり言い、自分が誓った事を必ず実現し、更に自分の言葉が口から出ると、神は無駄に話さず、言った事を必ず行う。

   イスラエルの民は神の教えたすべての事に基づいて、神を示すのにイメージやシンンボルを使ってなんとかしようとする。 例えば、イスラエルの民は「いと高き神」「全能の神」「天と地の創り主」「忠実な神」「約束の神」「契約の神」「救いに岩」「人生の城壁または砦」「ヤウエ(YHW言い表せない名前)」「エンマヌエル 神が私と共にいる」「イエス 神が救う」と言う。 私たちが神の名を呼ぶ時、つまり祈る時、いつも「父と子と聖霊の名によって」というが、名前のない三位一体の神である。 詩篇8の2節では「主よ、私たちの主よ、あなたの御名はいかに力強く、全地に満ちている事でしょう」と歌っており、神の名を呼び求める事は、神に祈る事、神の礼拝に等しい事である。 神に向かって神を呼び求め、神の助けを呼び、神の名を叫ぶ事は出来るが、神の名を無駄に言ってはならないと出エジプト207節にあって、神の現存に対する尊敬を表わす。 父なる神の名が聖とされる様にと望むキリスト者は、どうしても神の名を呼び求める義務があり、その呼びかけはキリストの名によってしか出来ない。

 



あなたの名は聖とされますように」

   神の名は昔から聖なる名であるのに、どうして聖とする必要があるのだろうか? これを理解するのに神ご自身がエゼキエル3622-26節で次の様に言われる。

  「主なる神はこう言われる。 『イスラエルの家よ、私はお前たちの為ではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名の為に行う。 私はお前たちが国々で汚した為、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。 私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされる時、諸国民は、私が主である事を知る様になる』と主なる神は言われる。 『私はお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導きいれる。 私が清い水をお前たちの上に振り掛ける時、お前たちは清められる。 私はお前たちをすべての汚れとすべての偶像から清める。 私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。 私はお前たちの体から石の心を取除き、肉の心を与える。』と」

   そこで神はこれに対して何をするかを説明される。 これは追放の終わりの告げであって、皆、自分の国に戻り自分の心を変え、罪から清められ、律法に従うようにさせる。 この中に神の願い、つまり「あなたの名が聖とされるように」の理解の鍵がある。 追放はイスラエルの反抗と罪の結果であって、異邦人はこれを神が自分の民を守る事が出来なかったと見るのは、当時の人は神が自分の民を守るから、イスラエル人が完全に負け、神殿も破壊されたのは神が役にたたず、神に力がないからだとしたからである。 イスラエルの罪のせいで神の名は汚され、イスラエルの敵は神の名は値打ちがないと思い込み、その名はイスラエルの民を守る事も救う事も出来ないと考えた。 だから神は異邦人が考えたとは逆のやり方、つまり皆を解放し、救い、皆が神の許に戻ってきて、罪から清められ、癒される事で、自分の名が聖である事を示し、皆一緒に一つの心になると神は言われる。
 
   エゼキエルのおかげで私たちは神にむかって「あなたの名が聖とされますように」と言う事の意味が分かる。 父よ、あなたの名が聖となりますように、世界の人に向かってあなたが良い神である事を示して下さい。 あなたの力が救う力、あなたの愛が癒す愛、あなたの赦しと慈しみが私の心を改心させるのです。 神よ、あなたが私たちの本当の神である事を示してください。 あなたは言葉と行いによって正しい神、真理の神、聖なる神である事を示してください。 このような事を神に願うのは、つまり詩篇52-10b節の言葉「世々限りなく、神の慈しみにより頼みます」を繰り返す事であり、またパウロは2テモテ112節に、「私は自分が信じている方を知っている」と述べる事である。 だから「あなたの名が聖とされますように」と祈る時、私達は単に願いや望みを表わすのではなく、神ご自身が神の名を聖とされるように願う。 このあなたの名を聖としてくださいという祈りの言葉は、祈る人にではなく、神の行いにアクセントがある。 神は自分の名を聖とする事で、救いの業を通してご自分が私と共に一緒にいる事をはっきりと示すようになる。




み國が来ますように

   神の名と神の国(支配)は偉大な二つの事実であり、これはキリストの祈りの中で、またキリストの福音宣教的な活動のなかで、大きな場所を占めている。 「あなたの名が聖とされますように、あなたの国が来ますように」というこの二つの願いはキリストの時代に既にユダヤ教の典礼にあり、特にカディッシュと言う祈りの集いを終わらせる言葉の中にはいっていた。

  「ご自分の意志に象って神が作られた世界の中で、神の偉大な名は聖とされ、尊ばれますように。 そして私たちが生きている内に神の支配が広がりますように。」と。

   以上のようにキリストはご自分の祈りの中で、二つの願いをもう一度表明しようとしている印象を受ける。

   キリストが福音宣教をする時、至る所で神の国が近いという。(マタイ417節) 同時に、その国に入るためにどうしたらよいかと言う道を教えるが、これは回心であって、神の国にはいるのに最も必要な方法で、主よ、主よと言う事は役にたたない。(マタイ721節) 時々キリストが神の国は人の内にあると言うが、とても近いから私たちの内にあるのである。 ルカ1721節には「神の国は見える形ではこない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に神の国はあなた方の間にあるのだ」と書かれている。 キリストにとって神の国が来るのはキリストの最も激しい希望を示すものであって、キリストは心を配り、心配するほど神の国がくるのを望んでいる。 ルカ1249節では「私が来たのは地上に火を投ずる為である。 その火が既に燃えていたらとどんなに願っている事か !」と読まれ、 ルカ22章15節に「苦しみを受ける前にあなた方と共にこの過ぎ越しの食事をしたいと私は切に願っていた。 言っておくが神の国で過ぎ越しが成し遂げられるまで、私は決してこの過ぎ越しの食事をとることはない」とある。 この神の国を福音史家はおよそ90回キリストの口においているが、神の国が来ますようにというキリストの激しい望みが示されていると言える。

   神の国が来ると、具体的に神の名は聖とされる。 神の聖旨を行うこと、神の手から毎日の糧を戴くこと、許しを与える事を学ぶこと、神の赦しを戴くこと、(この赦しは悪と誘惑から解放する)、これらのすべてのこと、つまり主の祈りの中にあるすべての願いは神の国を来させ、神の名を聖とする。 私たちが人の過ちを許すとき、神の国が来、神から赦されるとき、神の国が来、罪と悪から解放され、誘惑から守られ、神の手からパンをいただくと、神が命の泉であることを認める事で神の国が来、神の名は聖とされる。

   キリストによって救いの時が始まり、弟子達はこの特別な出来事の証人である。 確かにキリストは救いの時を齎したが、これは初穂であって、その後に沢山の者が続き、現れる。 その故に、ある人は神の国の到来の内に栄光を帯びて戻ってくるキリストの来臨を見るが、キリストはアルファとオメガ、芽生えと結末である。 聖チプリアノは次の様に言っている。 「神の国はキリスト自身である。 あなたの国が来ますようにということは、主よ、来てくださいという事である。 ご自分の父の手に自分の血と十字架上の死によって、贖われた世界を委ねる為にキリストは来られる。」 次いで1コリント1524節を見ると、「次いで世の終わりが来ます。 その時キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神の国を引き渡されます。」と書かれている。 他の人によれば、神の国は教会の到来であると言い、キリストがそれを望んでいたし、聖霊によって導かれた教会はキリストの神秘的な体であると言っている。 これらの人によると、キリストが栄光の内に来られる日まで、教会は至る所でキリストの救いの業をし続け、それを実現する為に、キリストからすべての権能を受けたと言う。

   神の国が来ますようにと願う事で我々はキリストご自身の希望を神に願う。 キリストの希望は救いの計画と神の神秘と聖なる名の神秘であるって、神の聖旨が行われた時、神の名が聖とされた時、神の国がここにある。 また、正義、平和、赦し、愛徳の行いによって世の救いが明らかに示された時もそうで、神の救いに関係のあるもの、神の神秘、神の聖なる名に関係のあるものを願って、それが実現される時、私たちは神の国を来させる。 神のうちの自分の希望、信仰、心配を置く人は、現在も未来も神の国を来させるが、キリストはマタイ631節で「まず神の国を捜し求めなさい。そうすれば残りのものはすべて与えられる」と語っている。 更にロマ書1417節で「神の国は飲み食いではなく聖霊によって与えられる義と平和と喜びである。」と述べられている。

   実際、神の国は私たちの内に働く聖霊の実りであり、神の国は私たちの内にあるからこそ聖霊は神の国を見せる豊かな賜物を私たちに与える。 この賜物とは私たちに与えられた知恵、賢明さ、科学、信心、力、神への畏れであるが、それは聖霊が私たちの内に、愛、柔和、忍耐、我慢、丁寧さ、中庸、正義、平和、喜びの実を豊かに実らせたいからである。 このようにして私達が神の国が来ますようにと祈る時、イエス・キリストの深い望みが自分の内に、世界の内に、聖霊の力によって実現されるように願い、父なる神の名が聖とされますようにと切願する。





あなたのみ旨

   イエスは生きておられる間に何回も神のみ心について話され、神のみ旨を行うことは私の糧だと言われた。 ヨハネ46節で「私の食べ物は私を遣わされた方の意志を行うことだ。」と言われている。 またキリストは度々私がこの世に来たのは神のみ心を行うためだと言い、私の意志を行うためではなく、私を遣わされた方の意志を行うためだと繰り返している。 遣わされた方の意志とは、彼が私に与えたものを何一つ失うことなく、かえってそれが最後の日に復活することで、これこそ私の父のみ旨であると語り、子を見て信じる人が永遠の命を得るように、私は最後の日にその人を復活させると言う。(ヨハネ638-40節)

   イエス・キリストによると神のみ旨とは、父が行いたい救いの計画を実現することであって、この救いの計画は宇宙万物と人間の歴史に深い関係がある。 パウロはエフェゾ156節で次の様に言っている。 「イエス・キリストによって神の子にしようとみ心のままに前もってお定めになったからです。 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵を私たちが称えるためです。」と。 神のみ旨は私たちがキリストによって愛する子となることであり、同じ所1910節でも、「神は秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは前もってキリストにおいてお定めになった神の御心によるものです。 こうして時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つに集められます。 天にあるものも地にあるものも、キリストのもとにひとつにまとめられるのです。」とパウロはもっと詳しく教えている。 これが実現される為に、キリストは私達を共に祈るように誘い、マタイ1814節では「そのように、これらの小さな者が1人でも滅びる事は、あなた方の天の父の御心ではない」と述べて、神のみ旨と福音の教えを一つにし、更に、キリストによるすべての救いという唯一の目的を目指している。


あなたのみ旨が行われますように

   このように宇宙万物と人間は結ばれていて、キリストの願いは神のみ旨が行われる様に、神の意志が行われる様に、実現するようにと言う事であるが、では誰が働くのかということが問題となる。 神である父自身がそれをするのか? イエスがそれを行うのか? それとも私たちか? 福音によるとすべての答えが可能である。 神ご自身が自分の計画を行い、キリスト自身がそれを実現し、私たちもその実現に努力する。 先ず、神のうちに救いの計画があるから父である神がそれを最初に行う。 だからあなたのみ旨が行われるようにと言う事は、私たちの希望を表わしている。 「父よ、世を救うあなたのご計画を完成させてください! だからあなたの国が来ますように! すべての人がキリストの内に一つになりますように!  あなたは命の充満のために私たちを作ったからです。」と願う。 なににしろ、ご自分の命を私達に与えて、神のみ旨を完成されるのはイエスである。 キリストは、考えられないほどの苦しみと悶えの中で死を迎える事で、恐ろしい苦しみを超えてそれを実現する。 マタイ2642節の「父よ、お望みならこの杯を遠ざけてください。 しかしあなたのみ旨が行われますように。」という祈りは、キリストが受難の時、その恐ろしさにもかかわらず神のみ旨を行った事を語っている。 ルカ2242節によれば、「私の望みではなく、あなたの意志が行われますように。」と言い、ヨハネ1431節では、「私が父を愛し、父がお命じになった通りに行っている事を知るべきである。」と述べている。

   そこで私たちはあなたのみ旨が行われますようにと願う時、私たちもキリストがされたのと同じ様に明白にそれを実現する様に願っている。 キリストが何をするか知っていた私達ははっきり認識して神のみ旨を行う様に願う。 神が私たちの努力にご自分の力を加えて一つになって行う様に願い、神だけが唯一の主、唯一の救い主、私の人生の主人である。 ここでは神のみ旨が私個人の活動、努力でもあって、あなたのみ旨が行われますようにと言うのは、望みではなく、またキリストがそれを実現することでもなく、私たちの個人の祈りとなり、神が私たちの弱さを支えて私の怖れを慰め、自分の苦悶をおさえ、私たちが何時でも、何処でも、至るところで神が望んでいる事を実現出来る様にと願う事である。 丁度マリアが「お言葉の通りになりますように」と言われたように・・・(ルカ138節) これにともなって、心の中にキリストの言葉が与える喜びも付け加えられ、マルコ335節には「天におられる父のみ旨を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、母である。」と述べられている。





天に行われるように地にもあなたのみ旨が行われますように

    天というと、はるかに私たちを越える世界で、雲のかなたにある場所ではなく、神がご自分を完全に啓示する場所である。 天使と聖人の前で神がご自分の姿をありのままに見せる場所であって、 そこでは神の国、神の支配に対する妨げはなく、反抗するものもないし、疑いもなく神が望まれることが完全に行われる。 天とは栄光の中にあるキリスト、新しいエルサレムである。 地上では完璧な充満の中に生きる事は不可能であり、神の栄光、神の聖性の中に生きる事は私たちには出来ないが、天に行われている事を真似られるように願う必要があるとキリストは教えている。 天が地上に来ますようにという願いは、あなたの国が来ますようにと同じであって、復活したキリストの内に既に実現されている国が、地上の至る所に広がりますようにと願っている。(これはすでにカディシュの祈りの願いであった) 天使、聖人がはっきり見ているものを、私たちも地上で見ますようにと望み、愛の救いの計画が完全に実現する様に願う事である。

   天におられる私たちの父よ、あなたの名は聖とされますように、天で聖とされているように地上でも・・・ あなたの国が来ますように、丁度天にあるように・・などと天と同じ様に地にもとすべての願いを加える事が出来る。 この不可能と思われる事を願うことで、キリストは私たちがどうしても、上にあるものを捜し求める賢明さを自分の身につけるように勧めている。 私たちは祈る時、天でと同じ様に完璧なものを捜し求める。 完璧に実現された事実、つまり神の栄光を今、私たちが受ける様に、また神だけが与えようとしている完璧さ、愛の完成を今、ここで戴くように願う事である。 復活されたキリストによって、天では既に神の愛の計画は完全に実現されている。 だから地上でもありますようにと、天と地の出会いの実現を願う。

   しかし誰がこんな風に祈る事が出来ようか ?  キリストだけがこんな風に祈る事が出来る。 彼は神のみ旨を行いたいと絶えず思っているから、この願いを完全に祈ることが出来るが、信者は誰であろうとキリストの言葉を自分の言葉とし、それをキリストと共に捧げ、病気の時、苦しみの時、危険な前に、疑問の時、死に直面した時、この言葉をキリストと共に繰り返す。 「父よ、あなたのみ旨が行われます様に。」と。 使徒聖ペトロは、1ペトロ3章17節で迫害された信者に対して、「神のみ心によるのであれば、善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい。」と言っている。 だから不正、暴力、テロ、戦争の前で私達はこんな風に祈る事が出来る。 なぜなら、テロ、戦争、不正、暴力などは地上では溢れていて、まだ神の国は来ていないし、神のみ旨が行われていない。 この願いは共同祈願の根本的な願いであって、貧しい人の為、迫害されている人、暴力の犠牲になっている人に代わってこれを願う。

   また聖パウロが、フィリッピ13~6節で「私はあなた方の事を思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがたが一同の為に祈る度に、いつも喜びを持って祈っています。 あなた方の中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を成し遂げてくださると私は確信しています。」と言うのと同じ様に、喜びの叫びを上げる事もできる。 自分の目の前で神のみ旨が行われている事を見て感謝し、共同体の中で良い業があると感謝するのは、神の国が来、神のみ旨が行われているからである。 私たちの活動の中で神のみ旨が行われている事を感謝し、神のみ旨が天と地で行われる様にというのは勇敢な願いであって、私の方から信頼、放棄、ゆだね、感謝が必要である。 毎日私たちは神のみ旨が何であるかを捜し求める責任があるから、分かち合いの印し、和解の印し、平和の為に行っているものを見ながら感謝し、逆に暴力、テロ、死、を見ると、赦しを願いたい。

   ここで最後に詩篇1199~16節を見よう。 この祈りをイエスは人間として生きておられた日々に、ご自分の祈りとしてよく用いられたに違いない。

  どのようにして若者は歩む道を究めるべきでしょうか? あなたのみ言葉どおりに道を保つことです。 心を尽くして私はあなたを尋ね求めます。 あなたの戒め(死)から迷い出る事のない様にしてください。 私はおおせを心に納めています。 あなたに対して過ちを犯す事のない様に。  主よ、あなたを称えます。  あなたの掟を教えてください。  あなたの口から与えられた裁き(決めた事)を、私の唇が一つ一つ物語りますように。  どのような財宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとしますように。  私はあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。  私はあなたの掟を楽しみとし、み言葉を決して忘れません。

   これは神のみ旨を捜し求めるやり方である。





今日のパンをお与えください

   人間が自分に必要なもののシンボルがパンである。 つまり健康、家、仕事、家族生活、友達、人間関係、社会生活、安全、自由、心地よい生活、平和などである。 パン(シンボルとしての)は人間のすべての飢えを満たすもので、パンがない時、すべてがうまくいかず、反抗や反発、不平、不満が表れる。 例えば砂漠にいた飢えたイスラエルの民は、パンがないのでずっと神に対して侮辱、反抗の態度を投げつける。 私たちが父としての神にその日のパンを願う時、神が私のうちに神に象って創られた人間に、最も相応しいものを保たせて下さるように願っている。

   創世記の時から神は何時も人間に必要なものを与えられ、まずアダムには木の果物や草を食べ物として与え、後でパンを与えるが、これらの糧は時間に従って変わり、人間の罪に応じて変化する。 木の果物や畑の草は消えて、額に汗して作るパンに変わり、洪水の後で神は葡萄酒と肉を加えられる。 ヘブライ人は絶え間なく砂漠でマンナ、天から下るパンを受け、彼らは長い試練の後、約束された地に入る時、ミルクと蜂蜜の流れる地で新しい糧を受けるが、聖書全体で神は自分の民を養い、満たす神として現われ、キリストは父なる神と同じように必ず食事、披露宴の話しを使われて、キリストの教えはいつも私たちの心に留まり、満たす糧にむけられる。 ヨハネ635節には「私の傍の来る人は飢える事がなく、私を信じる人は乾く事がない。」と書かれている。

   今日のパンを与えてくださいと願う私たちは、良い神、優しく愛に満ちた神、私の父私の霊的なまた肉体的な健康を望んでいる神がいるという事について考えなければならない。 つまり神は私たちの二つの飢え、物質的なものに対する飢えと霊的なものに対する飢え、つまり人間的な飢えを満たしながら霊的な飢えも満たして下さる。 この様に神は完全にまた永遠に残る、上にあるもので満たし、 私たちのうちにご自分の国への希望を深め、神の支配、神の意思、神の聖性などへの希望で満たされる。 そのために人間にとって最も必要なパンは御子キリストを通して神が私に与えるパン即ち聖体である。 つまり、永遠の命のパンと葡萄酒、身代金として流された血、罪の赦しの為に引き渡された体であって、ヨハネ65354節には、「はっきり言って置く。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達のうちに命はない。 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」と書かれている。

   神が地上にいる私たちに必要なものを与えながら、同時に神の子として生きる為、神の命に生きるように呼ばれた私達のために必要なものも与える。 私たちは今日のパンを与えてくださいと願うことは、神にあなたの子イエスを私に下さいと言う事である。 というのは、キリストだけが実際にご自分の体であるパンで私たちを養い、流された御血の葡萄酒で私達を育て、命のみ言葉で確かに私たちを満たす。 何故ならイエスは私たちが満たされ、永遠に生きるために、肉とされた神のみ言葉だから。 父に向かってパンを下さい、つまりあなたの子を下さいと言う事は、私たちの神を礼拝したい、神のみ名を聖としたい、神の意思を行いたいという望みを示している。 ヨハネ629455765節に「神の業は遣わされた者を信じる事、父の教えを聞いた人は私の許に来、私は彼に教え、私は父によって生きていると同時に私を食べる者は私のよって生きる者となる。 そのために父の恵でなければ、誰も私の許に来る事は出来ない。」と書かれている。

   更に、父なる神にパンを願う人は自分には欠けたものがあると認める。 たとえ自分のお腹が一杯でも、自分の内に愛の完成が行われていないし、天の国への乾きが弱く、神との親しさがあまりないと認め、今日の糧を与えて下さいと祈る時、「父よ、私はこの地上ですべてを持っています。 しかしあなたなしに私は何もありません。 あなたこそが私の豊かさ! 本当に、主よ、お金を沢山持っていても、健康であっても、友に恵まれていても、尊敬され、貴ばれていても、私はあなたの前で自分が貧しく、病気で、弱く、欠けている事を認めます。 私は本当にあなたを愛する事が出来ず、礼拝する事は下手で,あなたの名を聖とする事も出来ず、あなたの意志を行うよりも自分の我儘な心を示します。 ですから主よ、あなたのうちに私のすべての惨めさを見つけて、あなたがそれを満たされる様に願います。」と訴えるのである。 実際に飢えている人も、満腹している人も父にむかってこの祈りをする事が出来る。 条件は自分の内に何か欠けている、自分で何でも出来ると言うことはない、自分に依り頼んだら何もできない事を認める事だけである。 箴言308節の「空しいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。 貧しくもせず、金持ちにもせず、私の為に定められたパンで私を養って下さい。」にあるように、日毎に諦めずにこの願いをしよう。 ルカ18章1節でキリストは弟子達に昼も夜も祈る事を教えている。

   結局、ヨハネ651節で言われているように、父なる神にパンを願うことは、天から下ってきた真のパンであるキリストを、自分の命に、自分の生き方の中に受け止める意志を示す事であり、これによって私たちは主の祈りの始めの三つの願いをかなわせる事が出来る。 ヨハネ432節で「あなた方が知らない食べ物を私は持っている。 私の糧は私を使わされた方の意志を行う事であり、彼の業を実現する事である。」とサマリア人に言われ、同じ410節で「もしあなたが神の賜物を知っており、また水を飲ませてくださいと言ったのが誰であるか知っていたなら、あなたのほうからその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えた事であろう。」と言っている。





私達を赦してください

   神との和解は兄弟との和解を通して行われる。 マタイ614,15節において、「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになる。 しかしもし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」と言われている。 またペトロが何回まで赦すのかと尋ねた時、マタイ1821,22節でキリストは7の70回までと答えた。

   赦してくださいという願いは社会的な生き方、天国の生き方にとって重大な願いである。 なぜなら和解がなければ、平和は地に広がらず、従って天の平和も決して味わう事は出来ない。 私を赦してくださいということは、神のあわれみを一生懸命願う事ではなく、私達の行った悪を直す可能性を与えて下さいと願う事である。 つまり自分が赦すこと、また人から赦される事を願って、心の平和、社会的な和解、家族的な和解、また教会的な和解を神に謙遜に願っている。 だから、『主よ憐れんで下さい』と『罪を赦してください』は全く違う事である。

   神に願った赦しは神の神秘の中に、神が赦し、憐れみを示し、慈しみを与える神秘の中に、私達を入らせる。 神は罪人の死を望まず、改心を望み、むしろ私達が神と同じ様に振舞うように、つまり、裁かず、咎めず、相手の帰りを待つという平和と慈しみに溢れる心で待ち望む事を期待される。 ここで赦してくださいと言う事とあなたを赦しますと言う事の二つの生き方は、謙遜の行い、信頼の印しであり、愛徳と愛の証拠である。 私達の過ちは自分自身、隣人、神を傷つけ、他の人から受けた過ちや傷も同じ様に神に対してした傷でもある。 だから誰であろうと皆、神の名によって赦しを願い、また赦すように召されている。

   赦す事は非常にむずかしい。 だから度々十字架上に釘付けられたキリストを見る必要がある。 キリストには復讐しようとか、呪おうとか言う考えはなく、犯罪者を赦す。 ただ「父よ、彼らを赦してください。 彼らは何をしているか知らないからです」と言う。(ルカ2334節) キリストは拷問され、十字架につけられた時に赦しの言葉を与えるが、赦すためには先ずこの赦しを望まれる父の事を考えている。 私達も赦したいなら、まず父を見、父のことを考える必要があり、ここからキリストがどの様に自分を殺す人を赦し、見ているかを理解し、聖霊こそ慰め、愛の力、赦しの力であるから聖霊の助けを願う。 これだけではなく、最後に友人の祈りの支え、私達と教会の祈りを願い、司祭をとおして赦しの祈りをすることで、人々に本当の赦しを与える事が出来る。 詩篇5120節は、救われる事を喜び、寛大な霊が私を支えますようにと言う祈りである。






誘惑に陥らせないで下さい

   沢山の誘惑があって、日毎に私達はその誘惑と戦おうとしている。 神はその誘惑と全く関係がなく、良い神であって悪を望まず、誘惑もしない。 するのは神ではなくサタンである。 また神は試練を与えたり災いを送ったりしないが、神は私達が誘惑に陥る可能性があるのを知っており、それに陥らないように深く望んでいる。

   主の祈りをよく見ると、という語は複数ではなくて、単数になっていて、単数の誘惑に陥らせないで下さいと願う。 また日常生活の中で起こる誘惑であれば、この願いが罪の赦しの前に置かれなければならない。 だからこの誘惑は神を否定する誘惑、創世記35節でアダムやエヴァが持った誘惑、私自身が神になるという誘惑、神を捨てる誘惑である。 キリストは砂漠で同じ三つの誘惑を受けて、人間になったのに、サタンは人間である事を忘れさせようとし、神として行なえ、神になれ、神の子ならあれをしろ、これをしろといい、あなたの父を捨てて、私を拝めと言う。 新しいアダムであるキリストに古いアダムに対する誘惑を繰り返す。 ルカ4113節に書かれている事を要約すれば、サタンの誘惑は何時も同じで、完全な神の否定と神の救いの計画の拒みであり、神に代わってサタンの支配を受け入れる事である。 受難の時サタンはもう一度色々な人を使いながら誘惑する、 ペトロについては、マルコ83233節、ヤコブとヨハネではルカ954節、十字架の足元に立っている人など、マタイ2740節、ルカ2335節などでサタンは誘惑を繰り返す。 例えば、キリストはペトロに対して、「しりぞけ、サタン、あなたの考えは人間の考えである」といい、十字架上で盗賊や見ている人達は、「あなたは神の子なら十字架から降り、沢山の人を救ったのだから、神の子として自分と私とを救え」と言う。

   私達は神に誘惑に陥らせないで下さいと願う時、私達の信仰を危機に陥れる危険や棄教の誘惑がある事を認める。 神を否定する可能性があることを認めて、「主よ、この誘惑が来ないようにしてください」と願い、私達が自分の人生からあなたを見離さないように、盲目的な傲慢に陥らないように、色々な考え方から救ってくださいと祈る。 誘惑は神を愛する父として私達に見せず、むしろ神を敵として、なぜ神は私に悪い事をするのか、なぜずっと見張っているのか、どうしてこんな試練を送ったのか、神は何をしているのか、何故私を助けないのかなどと言う考え方に駆られて神を捨てる誘惑に陥る。 サタンの高慢は悪魔的で、神から来るすべての助けを拒否させ、神は自分のしている事と全く関係のないという態度をとらせ、自分自身だけで何かをしようとする。 だから私達は神の恵みの内に留まるように願わなければならない。 今日、私が神の恵みの中にいるとしたら、神に対して忠実であるようにと、父なる神がその恵を与えたからだと理解し、私達が何回も唱える願いを神が聴かれたと認識する必要がある。

   イエスはこの同じ祈りをされた。 受難の時、ペトロのために「シモン、シモン、悪魔はあなたを小麦粉のように篩いにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし私はあなたのために信仰がなくならないように祈った。 だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と祈られた。(ルカ223132節) だからペトロはキリストを知らないと言うが、キリストの祈りのお陰でキリストをとことん否定する事は出来ず、後で、泣いて自分の過ちを認め、許しを願った。 サタンの誘惑の目的は信仰を奪うことにあって、キリストはあなたの信仰がなくならない様にと言われる。 またヨハネ1715節で「父よ、私がお願いするのは、彼らを世から取り去る事ではなく、悪い者から守ってくださる事です」と言われ、世の中に居る私達にはサタンから守られるように、キリストの祈りがあると分かる。 自分の弱さを見るよりも、キリストの祈りにより頼み、ここからサタンを追い出す力を見出す必要がある。 自分の過ちを越えて立ち上がる力を・・・ イエスは神を捨てる誘惑が死の時まで私達に伴う事を良く知っていて、この願いが何時もされるように要求する。 これに相応しいのは「罪人である私達の為に今も死を迎える時も祈ってください」と言うマリアの祈りである。 つまり死の時こそ神と出会う時であって、恐怖が私の信仰を奪わないように、自分の罪を見るよりも、神の憐れみを見る必要がある。





私達を悪から救ってください

   悪から救われる事はどんな悪の姿の前にあっても出てくる人間の心から沸き出る叫びである。 単純な、根本的な、宇宙的な叫びで、憎しみ、苦しみ、差別、支配の圧迫の下にある人が助けて下さいと叫ぶ。

   イエスは何時も悪について話し、また直接悪と戦う。 人を癒し、悪霊を追い出し、赦しを与え、死んだ人を復活させ、特にサタンと直接戦う。 教会の教父たちはキリストのこの最後の願いが「悪から、サタンから私達を解放してください」であると理解した。 ヨハネ第一の手紙28節で、「あなた方はサタンに打ち勝った人である」といい、聖パウロはエフェゾ61215節で、戦い、自分を守る武器を身に纏いなさいと言っている。 「神の兜を悪魔の仕業に抵抗する為に着なさい。 私達の戦いは血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の藷霊を相手にするものである」と12節では言っている。 人間を破壊する者に悪という名を与えても、サタンといっても同じである。 悪は神から私達を離れさせたい、私達を妬み、復讐、絶望の中に引きずり込みたい、潔いもの、良いもの、楽しいものから私達を離したいのである。

   そこで神がどんな風に私達を悪から救うかというと、先ず死と罪に対するキリストの勝利によって、次いで復活の力によってで、この力は悪と悪魔に対する勝利を具体的に示している。 キリストこそ悪のすべての試み、方法を無にし、父なる神から遣わされた者として、私達を父の為に無事に守り、サタンの罠から救う。 ここでヨハネ1711,12節にある、「聖なる父よ、あなたが私に委ねたものが私達と同じ様に一つになりますように。 私は彼らと共にいた時に、あなたの名によって彼らを守りました。 そして誰も失いませんでした」というイエスの祈りが理解できる。 受難の前に、父なる神に捧げられたキリストのこの祈りは、あらゆる時代の又すべての人の為の祈りである。 これは私達の願い「悪から救って下さい」と一致しており、父なる神が確かにキリストを救い、守り、解放したように、神は私達を救い、守り、解放し、キリストと同じ様に私達がサタンに完全に打ち勝つ力をも与える。 父なる神が私達を救い守ると同時に、人生のあらゆる試練や災いや誘惑から勝利を得るという希望を持つ勝利者としてこの人生を通り抜けさせる。 ここに深いが目立たない解放があり、私達はこの解放によって父なる神の憐れみ深い親しさを体験できるし、キリストが私達の内にまばゆい勝利を得ている事をも体験できる。 この揺るぎない希望、必ず打ち勝つ希望を持って、私達を悪からお救いください、悪い者から守ってください、敵を支配してくださいと願う。 ここで皆、自分の内に悪と悪の足跡があることを認めなければならない。

   父に呼びかけるキリストの祈りによって、人間の存在そのものが主の足元におかれている。 その生涯は苦悶と苦しみを持つものとして紹介されている。 そこで現在、今日、毎日それを与えてください。 過去、私の過ちを赦してください。 未来、誘惑におちいらないように・・・だから主の祈りは自分の内に既に神の国が始まった者の祈りである。




アーメン

   このヘブライ語の言葉は私達の完全な承諾を示している。 今まで言った事、祈った事、願った事のすべてについて「はい、信じます、賛成します、承諾します、そのようになりますように、これこそ私の信仰です」と言うことである。 私達の「アーメン」はまず言われた事、聞いた事は正しく、本当の事で、真理であると同時に言われたものにたいして私達に使命を与える。 その通りになりますようにと言う事だから、自分が何かし、責任を果たし、言われた事について証しする使命がある。 私達がキリストの祈りを祈るとしたら、キリストの願いを全て自分のものとしなければならない。

    キリスト者の祈りは何時もこの典礼的な言葉によって終わる。 非常に強い意味を持っている言葉で、ヨハネは黙示録314節で「キリストは神のアーメン」、神の最後の言葉といっている。 これはキリストのうちにすべてが言われ、すべてが完成され、すべてが真理である事が証しされている。 それ以上何も付け加える事はない。 他の言い方をすれば、キリストはアルファとオメガ、始めと終わり、最初と最後である。(黙示録2213節) だから私達は「アーメン」と言う毎にキリストと一致していて、キリストは私達の祈りをすべて自分のものとする。 私達の祈りは「アーメン」によってキリストの祈りとなり、私達が本当にキリストの神秘的な体であることを証している。 キリストと親密に結ばれていたら、その結び合いを壊さないように益々キリストと一致して、キリストが父なる神に向かって、私達の為に執り成すのを深く望み、すべての人が私と共に救われる様にと願うようになる。

               


   祈りって なに?

   トップページへ戻る