コラム・雑記 / Life is a Flower.

コラム・雑記

「詩ありき」というところから一度離れてみる(その2)

とか言ってリンクを繋ぎつつも前回の話を要約すると、

  1. 詩を書くという行為の最初の過程は詩を書くという行動そのものではなく、内面的・主観的なものなものを表現のテーマとして捉えること。
  2. 詩を書くという行為は1.の過程を踏んだ上で、表現の手段として詩を選択するということ。

という二点に集約されるのではないか、という話でした。

で、その続き。前回でもコラム中で方法とか方法論とかいう言葉を使っているんだけど、上記2.を……、もっと細かい部分を見ていくならば2.の内の表現の手段として詩を選択するという部分は、裏を返せば詩以外のものも表現の手段が存在するということになる。即ち『表現』に直結する行為は「詩を書く」以外にも当てはまるものがあって、それぞれが(おそらく)並立するように存在するという風に言い換えることができる、というわけ。

私の言い回しは難しいとよく言われるので、ここで噛み砕いて言い直すと、詩だけが内面的・主観的なものを表現する手段・技法ではなく、他にも様々な手段や技法、例えば小説や歌や音楽や絵画、写真etc......と本当に色々あって、詩はその中の一つの手段だ。ということ。

へいりつ【並立】
ならび立つこと。二つ以上のものがいっしょに並ぶこと。また、ならんで立たせること。「両雄が並立する」

Microsoft/Shogakukan Bookshelf Basic Version2.0

詩だけでなく、小説を書く人や歌を歌う人、絵を描く人などなど、色々な人が存在することを考えると、どれかが表現の方法としてベストというわけではなく、それぞれの手段に一長一短の特徴があって、トータルとして見た時にそれぞれが並立していると捉えるのが一番自然ではないか、と思うの。

ここで注目すべきはそれぞれの手段に一長一短の特徴があってという部分。これは要するに手段によってどういうものを表現するのに適していて、逆に表現するのに適していないものもある、ということを指すと言えるのね。あるいはもう少し広義的に、表現者が鑑賞者の存在を最初から意識していたとして、その鑑賞者(=受け手)に対し、どのような影響・効果を与えるか(ないし期待できるか)という点についても当てはめることができる。

んじゃあ、その辺りを再確認という意味合い程度でも簡単に検証してみる必要もあるんじゃなかろうか、というようやく本題に入りそうなニュアンスを入れつつ、長くなりそうなので続く(最低。

2003-05-30T00:00:00+09:00 / Genre : POEM

【予告】For you総集編の第三集

前回のコラムで(その1)とか銘打って続きを期待させておきながら、別の話でごめんなさい。

もう少し先の話になるんだけど、6月半ば〜下旬にFor you総集編の第三集がアップロードできそうな予感。

その第三集も含めて総集編は当分(第五集くらいまで?)、相変わらずのログにindexを付けただけの読みにくい形になると思うんだけど、それ以降はもう少し総集編らしいものにできる予定。

予感とか予定とかばっかり(笑。

でもこうやって公言しておかないと、忘れた振りしてそのまま放ってしまうので。

2003-05-26T02:30:00+09:00 / Genre : POEM

「詩ありき」というところから一度離れてみる(その1)

詩ありき。これ、詩を書く人にとって無意識下で陥りやすい罠。

一個人が詩を書く理由というのは本当に様々だと思う。ただ理由は多様に富んでいたとしても「詩を書く」という行為そのものが筆者としての自分以外の他人を意識した行為ではないか、という仮定。

純粋に自分のために自分のことを綴ろうとすればその度合いに比例してその文章は形式的には簡素に散文化していくはず。記録として捉えた場合、詩のような表現による言葉の装飾はかえって邪魔になるのではないだろうか。

というところを根拠とすると、原則として詩という表現方法、あるいはそれに則った言葉の装飾は何らかの意図や形として他人に向けられた行為の結果であると仮定できるというわけ。

で、今回はこの仮定を前提として次の仮定へと発展させる都合、前提とする仮定が正しいかどうかの検証は行なわずに、このまま勝手に話を進めてしまうことになるのですが、第一の仮定を前提とする場合にキーワードになるのは詩のような表現による言葉の装飾という部分ではないか思う。

ひょうげん【表現】
  1. 外にあらわれること。また、外にあらわすこと。
  2. 内面的・主観的なものを、表情・身振り、言語、音楽、絵画、造型など、外面的・感性的にとらえられる形式によって、伝達できるようにすること。表出。

Microsoft/Shogakukan Bookshelf Basic Version2.0

と言葉の意味を突き詰めていくと、即ち詩になる以前の段階が内面的・主観的なものとして存在していることになる。

さて、問題になるのはここから。内面的・主観的なものを表現する方法が何故詩なのだろうか?

方法論として詩の手法しか知らない、というのも一つの理由になる。あるいは詩を書き続けてきたことによって、詩として表現するための捉え方を無意識に行なってしまう結果かもしれない。

これは詩だけに当てはまる問題ではないんだけど、この部分が意外とないがしろにされているように感じないわけでもない。要は最初の詩ありきとはここから導き出される言葉でもあるわけで。逆にここが問われないからこそ、形を模倣しただけで「これは○○だ」(例えば「これは詩だ」とか)という解釈の余地が生まれるのではないか、とも思うの。それについては別の話になるので、今回は取り上げないけど。

2003-05-25T00:00:00+09:00 / Genre : POEM

詩以外の伺かwith“任意”

伺か。これ、誤字とか思われたら悲しいね(笑。

それはともかく、筆者の感情や衝動が時に自らが書く詩にとって重要なファクターになりうることは大いにあることだと思うし、そもそも否定のしようさえないとも思う。

ただ、だからと言って「詩=筆者の感情」と直結するわけでもない。それが許されるならあまりにも短絡過ぎる。故に詩から筆者の感情を差し引いた時、そこに何も残らないのなら、それはむしろ告白文に近いと仮定できる。

2003-05-24T00:00:00+09:00 / Genre : POEM

個人サイトの定型を再考する【その3:Web日記】

……、と銘打ってますけど、日記って微妙だと思うのよ。ぶっちゃけると。サイトのコンテンツとしてかなり面白い日記とそうとは言いにくい日記があるようで、一概にどうだと言い難いコンテンツなのだろうという、いきなりの結論(笑。

ただそんな中でも一つ言えるのが日記って常連や常連とまで言えなくても頻繁にサイトに訪れてくれる訪問者向けのコンテンツと言えばその通りなのかもしれない、と。そうまとめる根拠として

  1. 日記ゆえに更新頻度が高い。
  2. その人柄ないし嗜好がコンテンツの求心力になる。

といったところかな。

1.は対象がリピーターなので、訪問してもらえる度に何らかのコンテンツに新しい情報(文書)を見て欲しいっていうサイト運営者さんの気持ちの一環とも取れるわけですよ。嫌な言い方をするとそうすることによる訪問者の囲い込み(笑。いつも同じ情報ばかりだとそのうち訪問者がサイトから離れていくという脅迫概念が少なからずあるはずなので。

2.は普通併設されているだろうBBSなどで会話を交わしてみたり、あるいはサイト全体を見渡してみてそのサイトの運営者の人柄や嗜好に興味や関心、共感などの感情を抱かない限りは、やっぱりその人の日常を欠かさず垣間見ようとは思わないんじゃないかなぁ。と。

エンピツはてなダイアリーのようなレンタルのWeb日記ポータルが成立するところを見ると視聴者視点的には他人の日常だからこそ覗いてみたいというニーズもあるのだろうけど、どっちにしてもどこかで興味や関心、共感を抱く人柄ないし嗜好が出てこないと興味も薄らいでくるわけで。

Web日記だけを持っている人も多くいる訳だけど、人が見るためのコンテンツとしては成立させるがすごく難しいという印象。

これが成立していないと独立した日記として成立するのは難しい。

逆にWebサイトの一コンテンツとしての日記の場合、一つ目の条件は少なくともサイト内の他のコンテンツで補えるのでその分だけ、日記という一つのコンテンツでクリアしなければならない条件は満たすことができるんだろうけど、同時にそれが足枷となってサイト全体から見て、メインコンテンツに対して従属するコンテンツとなりやすくなるわけ。

それは前のその人柄ないし嗜好がコンテンツの求心力になる。という、その求心力がメインのコンテンツによって露見する(書き手心理としては既に書かれていることを日記で再度書き添えたくない)からで。

Webサイト内に日記があって、且つそれなりに新規訪問者を受け入れていく指向でサイトを運営していく場合、どのコンテンツが別のどのコンテンツに従属していて、文書(例えば日記)を追っていくのに何が認識として前提となっているのかを再確認しておくといいのかもね。

2003-05-18T03:10:00+09:00 / Genre : Web


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