成人矯正のリスクについて
毎日新聞コラムより
「らくらく健康術」
1.歯を守るD
リスクをともなう歯列矯正 (2000年5月11日付朝刊)
林 晋哉
あごの運動(物をかむときのあごの動き方)は、一人ひとりが長い年月をかけて作り上げ、獲得した独自のシステムです。これは、年を重ねるに連れ、身体の他の器官とともに緩やかに変化(老化)してゆくものです。
しかし、残念なことに、まだ若いのに虫歯や入れ歯などの歯科治療によって、かみ合わせ(あごの運動)が急激に変化してしまうことがあるのです。その結果、思いもしなかった身体の不調に見舞われてしまうことがあります。最近ブームになっている歯列矯正でも、そうしたことが起こっています。特に20歳以降に歯並びを変える成人矯正には、あまり知られていない副作用が出る場合が多いのです。
歯並びを整えるには、ワイヤーをかけて力を加え、歯を移動させます。このとき、歯を並び変えるスペースを確保するために、上下の第一小臼歯【きゅうし】(犬歯の奥隣)を抜歯することが多いのです。見かけをよくするために健康な歯を抜くこと自体にも問題がありますが、たとえ抜歯をせずとも、歯を移動させ、歯並びを変えるわけですから、それに伴って上下の歯のかみ合うポイントも変化し、ズレが生じます。
そうなると、それまでと違ったかみ方(あごの運動)をせざるを得なくなります。つまり、あごの筋肉の働かせ方やその脳神経回路を、新たに獲得しなければいけなくなります。しかし、このようなかみ方の急激な変化に身体が対応しきれずに、歯やあごの痛み、頭痛、めまい、吐き気、精神的なパニックなどを起こしてしまうことがあるのです。たとえるなら、右利きの人に無理やり左手ではしを使わせたり、字を書かせたりするようなものです。
特に、かみ方を含め身体のさまざまなシステムが完成されている成人に対する歯列矯正は、こうした副作用ともいえるリスク(危険性)のおそれが高いのです。
歯は食べ物をそしゃくすることが最大の役目ですから、多少歯並びが悪くても、よくかめるという機能があれば、見かけはニの次でよいのです。
本来、歯列矯正は、かむという機能回復のための治療法なのですが、最近は美容目的だけで成人矯正をし、身体の不調を訴える人が後を絶ちません。見かけ上の歯並びは良くなっても、身体が悪化したのでは費用と時間をかける意味がありません。歯列矯正をしようとする人は、こうしたリスクがあることも十分に理解し、くれぐれも慎重に対応して下さい。
次回は子供の歯並びについてお話します。(歯科医帥)
2.歯を守るK
「矯正」をめぐってQ&Aの後半部 (2000年7月6日付朝刊)
林 晋哉
Q 林先生の「歯の成人矯正は右利きの人に左で書かせるようなものだ。最終的に多少歯並びが悪くても、よくかめれば、見かけは二の次でよい」という意見には抵抗を感じます。私は外科的な矯正手術を行っていますが、あごの成長の異常やかみ合わせの異常を手術で直すことで、患者さんの脊椎のわん曲が直ったり、姿勢がよくなったり、生き方に自信をもったりする例を多く見ています。林先生は成人矯正のマイナス面を強調し過ぎではないでしょうか。(新潟県の口腔外科医師)
A 私の診療所には、歯列矯正(外科矯正を含む)が原因で、全身にさまざまな症状が表れ、苦しんでいる患者さんが数多く来院してきます。たとえば、歯科衛生士のA子さんは、矯正医の勧めもあって矯正をしましたが、かみ合わせの違和感とともに、頭痛、肩こり、視力の低下などが起こりました。矯正医に訴えましたが、理解してもらえなかったそうです。
その後、私のところでかみ合わせの調整と各種リハビリなどを受け、症状はほぼ消失しましたが、こうした患者さんたちは「こんなに苦しむなら、矯正治療など受けなかった」と口をそろえて言います。
歯列矯正で歯を移動させると、上下の歯のかみ合うポイントが変化し、長い年月をかけて獲得した、その人固有のそしゃくシステムに変化を強いることになります。歯列矯正に年単位の時間をかけるとはいえ、固有のそしゃくシステムを獲得するまでの期間に比べれば、急激な変化です。
この変化をどれだけ許容しえるかがポイントです。手紙を寄せてくださったような専門家なら、こうしたケースはないと思いますが、現実には被害の例があることから、注意を喚起しているのです。(歯科医帥)
3.上記に関連する記事 (乙第32号証より抜粋)
■天然の咬合はTMD(顎関節症)の原因にはなりにくい
咬合が悪くてもTMDを発症しない人はたくさんいます。なぜなら、人間の関節や筋の外力に対する適応力は高く、とくに変化がゆっくりと起こる場合にはかなりの悪条件でも生体は適応することができるからです。関節や筋自体が変化して,苛酷な環境に適応するケースも珍しくありません(図11-4,5参照)。
天然歯列は6歳臼歯の萌出に始まり,同時に顎関節の形態が形成され始め、第2大臼歯の萌出完了で完成されます。咬合が不良であったとしても、その咬合は顎関節や筋と調和してできあがったものですし,その後の咬合の経時的変化にも十分順応し,共存できるはずです。したがって天然の咬合がTMDの重大な原因となることは稀なのです。
※毎日新聞コラムは林晋哉先生(林歯科・歯科医療研究センター、東京都中野区弥生町2-3-13)の承諾を得て転載しています。