グイノ神父のホームページです

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている。    ローマ5,5

                                                  


   預言者エレミヤは神は一人一人の心に 掟を与えて 契約を 更新すると告げ (エレミヤ31,31-34) 預言者エゼキエルは、この「掟」に「霊」という名を与えた (エゼキエル36,26−27)。聖書は分裂した人間の惨めさをよく示す。  パウロはローマ人への手紙を通して聖霊がどのように人を分裂から 解放してくれるかを描いている。  霊がいかに信仰者を神との交わりのうちに堅く立て、また 自分自身と他の人々との,更には 宇宙との交わりのうちにも しっかりと 固めてくれるかをおしえる。  聖霊は 父なる神と御子キリストから切り離すことができない。
   
   イエスは、神に父と子があることを教えた時、神の霊を啓示したのである。  聖霊は 独立したペルソナであり、その啓示方法は 父と子の場合とは異なる。  人間は父と子については、その輪郭を 描くことが出来るけれども、聖霊については、顔も示されていなければ、人間的な姿を想起させうるような名称も与えられていない。  神の霊の呼び名は 一般に、風や息吹などの自然現象を表わす言葉から 借りた普通名詞である。  

   また、神の霊に 直接触れることは 不可能である。 しかし、その声を聞いたり、その通過を認めることが出来る。  聖霊が 徴を伴って現われても、それが「どこから来て どこに行くか」は知ることが出来ない。  神の霊の象徴としては、一般に水,火、空気、風,鳩、油などが用いられるが、これらの自然界の事物や現象には 共通して、定まった形というものがない。  神の霊は 結局神秘的であり、人間の理解を超える存在である。

  
  聖霊が あなたに降り、いと高き方の力が あなたを包む。 ルカ1,35   

    旧約では 神の霊は、人間に特別な力を与えて、特別な行為を 行わせる神の恵みとして 示されている。  神から来て、人を 神に向かわせるこの霊こそは 聖なる霊である。 神は、「雨が乾いた土地を潤し」(イザヤ32,15) 「命の息吹きがひからびた骨に命を与えるように」(エゼキエル37) その霊を イスラエルの民全体 に注ぐことを約束する。  この聖霊の授与によって 全ては新しくなり、公正と義が現われ、人々は 神を知り、その声に従うことになる。  このように、イスラエルの民は 神の霊によって生まれ変わる時、自分の神を認め、神も 再び これを自分の民とする。  「わたしは、もう彼らに顔を隠さず、彼らに 私の霊を注いだ から」(エゼキエル39,29)。

   旧約聖書では 神の霊と神の言葉は 一緒に働いている。  預言者が 神の言葉の証人となるのは、神の霊が 彼らを捕らえたからである。  イスラエルの民が 神の言葉に 心から帰依するようになるのも、ひとえに 神の霊の働きによる。  神の霊と神の言葉 と言うふたつの力は このように不可分であるが、しかし非常に違った特徴を持っている。  と言うのは、神の言葉は 剣が肉にくい込むように、外から 内に 分け入ってゆくものであるが、神の霊は、流動物のように 気づかないうちに しみ込んでいくからである。

 
聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降ってきた。すると,
「あなたは私の愛する子、私の心を適う者」という声が、天から聞こえた。 ルカ3,22

                                  

  
   士師、預言者、王などは、ある日突然神の霊の訪れを受けた。  ガ、イエスの場合、聖霊によって 新しい人間になる ということがなかった。  聖霊は、彼の存在の最初の瞬間 から 彼のうちにやどっていたのである。  つまり 聖霊は、イエスを 母の胎内で 神の子としている。  イエスは、その全行動を通して、自分の中に 聖霊が働いている子とを現わす。神の霊を受けた者が 一般に示す珍しい現象が 〔異語、けいれんなど)、イエスの中に見られないことは、むしろ 彼が 神であったことを証しだと言える。

   実にイエスは、聖霊に満たされており、聖霊によってしか行動しなかったが、聖霊についてはあまり語っていない。  彼は その全行動を通して聖霊を現わしたが、地上にいる間は、それが 自分とは 別のものであることは 示し得なかった。  聖霊が降り、それが独立したものとして認識されるためには、イエスが この世をさることが 必要だったのである。  「私は去っていかなければ、弁護者は あなたがたのところに来ないからである」(ヨハネ6、7〕。


     イエスは,死んで復活した後、教会に自らの霊を与える。  この霊は、イエスの霊であり、弟子たちに対して、彼らにイエスの行いを繰り返させ、彼の言葉を述べ伝えさせ、また 思い起こさせ、更に弟子たちの一致を固める。  そして、聖霊は 生まれでた初代教会を 地の果てまで向かわせる力と飛躍となる。  聖霊の全ての働きは、人々を神に近づけ、神との生きた交わりの中に置き、神の聖なる深みに導き入れ、そして 神の奥義を体験させることにある。  信仰者が、キリストを知って「イエスは主である」 と告白しうるのも、神に祈って、神を 「父」 という名で呼びうるのも 聖霊による。
 
聖霊の七つの賜物

知恵

理解

判断

勇気

神を知る恵み

神を愛する恵み

神を敬う心



(イザヤ11,2-3〕
聖霊の働き

   聖霊よ、来てください。  あなたの光の輝きで、 私たちを照らしてください。  貧しい人の父、 心の光、 証しの力を注ぐ方。  あなたは 優しい心の友、 さわやかな憩い、 ゆらぐことのないよりどころ。  苦しむ時の励まし、 暑さの安らぎ、 うれいの時の慰め。  恵みあふれる光、 信じる者の心を満たす光よ。  あなたの助けがなければ、 すべては、 はかなく消えてゆき 、誰も 清く生きてはゆけません。  あなたは 汚れたものを清め、 渇きを潤し、受けた傷をいやして下さる。かたい心をやわらげ、 冷たさを暖め、 乱れた心をただして下さる。  あなたの言葉を信じて, より頼む者に尊い力を授ける方。  あなたは 私たちの支え。  あなたの恵みの力で、 救いの道を歩み続け、 おわりなく喜ぶことが出来ますように。                  アーメン、アレルヤ。
            

(聖霊降臨祭の祈りより)

聖霊の徴


信仰に生きること

希望を持つこと

愛を示すこと

祈りと賛美を好むこと

平和と忍耐と柔和

奇跡を行い、病気をいやすこと

福音を宣言する力

キリストの故に迫害を受ける喜び

予言することや異言を語り、
解釈すること


(1コリント12,1-11)より


                                   


     ヴァイオリン     
    なん枚もの薄板を張り合わせた、ちがった性質の木でできた 二枚の共鳴板で作られた共鳴箱。  良く調律された四本の弦と見事な腕前で操られる弓。  それらが 神秘的な素晴らしい楽器ヴァイオリンを形作っています。  ヴァイオリンは 魂を持っています。  で,ヴァイオリン弾きが楽器を自分のほほに ピッタリとつけるのは、その魂の声をより一層聞くためなのです。                                                                 
   人間は 神さまのヴァイオリンなのです。  従順という薄板によって 一体となる謙遜と純潔の二枚の共鳴板は、魂の共鳴箱を形作ります。  信仰、希望、愛 そして善意は、四本の弦であり、それは 必要な音色を現わすために、絶えず 調整をし直さなければなりません。  聖霊は 神秘的な弓として, 出来るだけのことをします。  なぜなら、神さまは ヴァイオリンの名手でいらっしゃっても、人間は名器ストラデヴァリウスではありませんから。  まさに人間は、完全なヴァイオリンではありません。  その共鳴箱は 多かれ少なかれ傷つけられています。  四本の弦は、ご自分の高さに合わせようと お望みになられる神さまの試みに、しょっちゅうさからって張っています。  時には 切れてそれっきりになってしまうほど 抵抗します。                                                              
   人間にとって正しい音を出すのは、なんと難しいことでしょう。  人間から、天来のメロディーを早く浮き出せたい神さまは、なんと忍耐強い方でしょう。  聖霊が 私たちの魂から浮き出させる数々のメロディーを味わうために、神さまが ご自分のほほに、私たち というヴァイオリンをしっかり当てておかれるその日は、なんと祝福された幸せな日でしょう。  
              
もしも・・・グイノ神父作)より 

                                                 



 トップページへもどる