神の救い   

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主よ、私は貧しく身を屈めています。

あなたは私の助け、私の逃れ場。

私の神よ、

 速やかに助けに来て下さい。

詩篇40,18


恐れるな、

私は民全体に与えられる

大きな喜びを告げる。

今日ダビデの町で

あなたがたのために救い

主がお生まれになった。

ルカ2,10-11

見よ、この方こそ私たちの神。

私達は待ち望んでいた

この方が私達を救って下さる。

その救いを祝って喜び踊ろう。

イザヤ25,9


                                


       聖書は、しばしば、どの頁を開いても、「罪」に触れていると言ってよい。 救済史は、創造主なる神が、その罪から引き離そうとうまずたゆまず 繰り返す試みの歴史にほかならないからである。 罪は、人間と神とを引き離すだけでなく、人間社会の人々の間に分裂をもたらす。 事実罪は、全人類に対する 神の計画の実現を妨げる最大の障害物であり、しかも唯一の妨げである。 「見よ、神の手が 短くて救えないのではない。 その耳が 鈍くて聞こえないのでもない 。ただ、お前たちの罪が お前たちと神との間に淵を掘ったのである」
(イザヤ59,1-2)。

     確かに 罪びとは 神 そのものを傷つけることは 出来ないであろう。人間は 神に対して 罪を犯すことによって、結局 自分自身を滅ぼしてしまう。 ところで、罪は 神を直接に傷つけはしないとしても、まず、神に愛されている人々を害する という意味で神をも傷つけると言わねばならない。罪は又、人間の命の唯一の源である神から人を引き離す。 このように 神の愛の計画をそこなう という意味でも、罪は 神を傷つける といえる








私はあなたのそむききを雲のように、罪を霧のように吹き払った。
私に立ち帰れ、私はあなたをあがなった。 イザヤ44,22

                              


    罪を犯して 創造主にそむいている人間は,自力では 神と和解することが出来ない。それが 可能となるのは、まず 神の方からの決定的な介入がなければならない。 「すべてこれらのことは、キリストによって 私達を ご自分と 和解させた神から出ている」(2コリント5,18)。 救いの業は、神の側からいえば、すでに 完了している。 しかし別の観点からすれば この業は栄光のキリストの再臨の時まで 今もなお続行している。

        救いの業や和解は 確かに 神から始まり、かつそこで主要な働きをするのは 神である。 しかしこの事実から、人間はこの際 全く受動的な態度をとればよい ということにならない。 そこに示される神の賜物を 積極的に受け入れることが必要である。神の働きは信仰によって これにすすんで同意する者にしか 効果を及ぼさないのであるだからこそパウロは、「キリストに代わって 切に願う、神の和解を受け入れなさい」。
(2コリント5,20)とさけんでいる。









御父が御子を世の救い主としてつかわされた。 1ヨハネ4,14

                          

   
    イスラエルの人々が 危機に瀕する時、神は 彼らを 奇跡もおこなうほど 摂理的に周囲の情勢に働きかけることによって、又は 彼らを勝利に導く指導者を遣わすことによって救う。その時 彼らは、「神の救い」を体験する。 それゆえ、彼らに危機が近寄るたびに、救いを期待して 神に心を向けたり、あるいは その救いが得られないで不平を言ったりしているのが理解できる。 イスラエルの人々は 自分の神以外に 救い主はないことを知っているから。 救いは ただ 神の賜物なのである。 神ご自身が 人々の救いである。 嘆願する人は 神を 「救い主」 「絶望する人の救い主」又 「救いの神」 などと呼ぶ。

        迫りくる致命的危険、敵の迫害、試練、苦悩、病気,災いなどを 前にして、彼らは 主に叫ぶ。 「神よ私をお救い下さい」と。 神は 全ての人が 救われて 真理を知るようになることを望んでいる (1チモテ2,4)。 ここに 神が イエスを 世の救い主として遣わした理由がある。 イエスは 愛を込めて、罪びとを迎えているが、罪に対しては直接戦いを挑んでいる。

        宣教生活中も、イエスは 病気や悪霊つきの姿で 悪霊と罪との支配下にいる人々を救い出す。 そし て最後に 多くの人の罪の赦しを得るために、自分の命を捧げて 十字架の上で死ぬ。 キリストは、死と復活によって、人類の 「永遠の救いの源」 である。 又、キリストを通じて 神の救いの業が 行われているからこそ、イエスの言葉と行いを伝える福音は、「信じるすべての人を救う神の力」 なのである。 信仰だけが 病人を救う、信仰だけが 罪の許しを与える、信仰だけ が悪霊に打ち勝つ。 信じて信仰を宣言する者は 救われる(ローマ10,9)。 神は 信仰者を、その業ではなく、純粋な憐れみ、恵み、聖霊の授与によって救う。 「今こそ救いの日である」 (2コリント6,2)という句が 示すとおり、救いは人生の各瞬間に提供されている。












  


 わたしは 「かたつむり」


    キリスト教シンボルの中で、あまり目立たないが かたつむりは 特別な立場を占める。 多くの美術品のなかで、キリストの墓の回りにある影にかたつむりが描かれ、又彫られている。 神は人を土で造られたので、泥から生まれたと信じられている 「かたつむり」は、人間の置かれている状況や運命を示し、特に 罪びとのシンボルである。 かたつむりの自然の裸体は、まず 人の肉欲や欲望を、次に 「何も持たずに世に生まれ、世を去る」(1テモテ6,7) 人間の状態を示し、それと同時に 不滅不変のものを追い求める人が、いつか 必ず 聖書の言うように 『蒔かれるときは 卑しい者でも、輝かしいものに復活し』   (1コリント15,43) 神の栄光を 身にまとうことを現わす。

   また 食べ物を探す努力をし、よだれをたらす 「かたつむり」は、額に汗して生計を立てる人間の苦労を示す。 更に かたつむりは ゆっくり歩み、殻から出たり入ったりするので 月のシンボルとして 取り上げられ、中々回心できない人の状態を現わす。 満ちたり欠けたりする月にならって 「愚かな者は月の形のように変わりやすい」 とシラ(27,11)で述べている。 又、人が 気のむくままに行って落ち着かないことを 詩編では 「なめくじのように溶ける」 (58,9) と歌っている。 そこで、「ム」 と 『月』 と 『比』 と「心」で作られた 「態』 という漢字は 様子とか身構えを現わす言葉であるが、このかたつむりから 連想出来るのではなかろうか。 反対に 聖母マリアの足の下に月を描いたり、彫ったり、置いたりするのは マリアが神の知恵で満たされ、不変性を持っているゆえである (黙示録12,1参照)。                                                                     
   さて、かたつむりの殻に入り込む姿は、利己主義、自己満足,むなしさを、外にでて角を伸ばす姿は高慢、自己愛、うぬぼれを示す 。更に 太陽の光をきらう傾向は、神の愛の光よりも 自分の罪の暗闇を好む人の特徴 をよく現わすが、雨を好む点は 人が 神から与えられる生きた水によって 生きる必要性を示す。

   さて、かたつむりの殻を見るとそれは迷路の模様である。 迷路はギリシャの伝説によるとダイダロスが設計し、複雑な曲折のために 彼自身さえ 分からなくなった と言われ、英雄テゼウスが 退治した牛頭人身の怪物、人を食い尽くすミノタウロスは ここに住んでいた。 つまり キリスト教的な解釈では、迷路は 人間を滅ぼそうとする悪魔の場所や死と罪の世界を意味し、ここからの脱出は 「新しいテゼウス」 即ち キリストによる救済と復活である。 主イエスは 悪魔に打ち勝ち、死を支配し、墓を開き、そこから人をひきだす。                                                                     
   ヨーロッパのゴシック大聖堂の床には、かたつむりの殻の色である白と黒の石で迷路が モザイク模様に描かれ、この上を信仰者が 跪いてたどる事によって 聖地のキリストの墓巡礼に代えたと思われる.。 こういう理由で 迷路模様の殻を持つかたつむりは復活の印として、主の墓のそばに描かれる習慣となった。 このように 「神の助けがなければ、人の苦労はむなしい」(詩編127,1)とか「生きるにしても、死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのだ」(ローマ14,8)とか「キリストは 私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのだ」(フィリピ3,20)と言う聖書の言葉が、つまらないかたつむりによって思い起こさせられる。 かたつむりのシンボルを通して,神が人間に与える崇高な恵みを理解できる。 「主は 卑しいはしためを顧みられ、私に偉大な業を行われた」 (ルカ1,48-49)。                                                                                 


     

死者の中から復活したイエス・キリストのことを思い起こしなさい。
彼は私たちの救い、永遠の栄光です。 2トモテ2,8-10



お父さん 私は家にかえってきました
お父さん あなたのそばにいて
 どんなに気持ちがいいことか

私は あなたからはなれて
 遠くに出かけました
理性を失い おろかな夢を追い
 妄想にかられて。
すべてに対する軽蔑を
 いっぱいかかえて出かけました
自分にふさわしい幸福を
 他で見つけられると信じて・・・

この世は 自由をうぬぼれを
 私にくれました
そこで私の心は富にまみれて
 無感覚になりました!

毎日あなたの現存の喜びを
味わっていました
私と共にあなたは自分のものを
 すべて分かち合っていました。
けれども 私は親切なあなたの手から
 遠ざかりたいでした
そして私の人生は
 あなたの不在で暗くなりました。
私は 不幸と死の道をたどり 迷いました
あなたへの信頼のうちに
 平和に生きる代わりに。

お父さん 私は家に帰ってきました
お父さん 今晩 私の子どもの心は 
あなたのもとへ帰ってきました。
お父さん 痛悔と信頼の心で
 私は帰ってきました
お父さん あなたのご意向を
 喜びにあふれて生きましょう。
お父さん 私はここにおります 
あなたは家に 私を迎えてくださる
お父さん あなたのそばにいて
 どんなに気持ちがいいことか!



(神の栄光を歌う真珠の首飾り グイノ神父作)より
主よ あなたがして下さった 
すべてのことをありがとう
私たちのために 私たちによって
 私たちと一緒にして下さったことを

あなたのすべての善意をありがとう
私の喜びにあふれる心が 
いつまでも あなたに歌いますように!

主よ あなたが
 あなただから ありがとう

あなたが言われたすべてのこと 
あなたが約束されたすべてのことを
あなたの摂理
 あなたのあわれみを ありがとう

私の人生が
 あなたの愛のすばらしさを
 歌いますように!

私の心が あなたの許しのやさしさを
 味わいますように!

そして イエスにあがなわれた全地が
世紀から世紀にわたって
あなたに歓呼の声を あげますように!


(神の栄光を歌う真珠の首飾り グイノ神父作)より

              

聖母の訪問の絵について(san Michele,, Carmignano, Florence たて 202cm、よこ156cm

  この絵を描いたのは、ヤコボ・カルチです。 しかしポントルモという町で生まれたので、ポントルモのヤコポとも言われます。 独りで生活し、絵を描く時に他の人からわずらわされるのを 嫌って,戸を閉めて 生活していました。 例えをあげると フィレンツェに行って カッポニの教会に3年間 閉じこもって 誰からも邪魔されずに この教会のフレスコを描きました。 彼にとって 絵を描くのは 福音を味わい、具体化すること同時に それを霊性に生きる事でした。 彼は レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの有名な人の影響を受けましたが、自分が独立して 非常に霊的な人でしたので、いつも 祈りから いただいたものを 自分の描く全ての絵の中に 表わそうとしました。

   この絵は1529年で描かれました。 この時代には イタリアでは ペストや戦争が多く、特に スペイン人のチャールス5世の攻撃を受けていました。 死と絶望の暗闇で覆われたこの無茶苦茶な時代に 希望の光や命と喜びの息吹を与える為に ヤコポは この落ち着いた絵を描きました。

   平和な雰囲気の中にある 霊的な二人の出会い、挨拶の接吻を描いていますが、ここで 私達の心に 浮かびあがるのは 先ず 雅歌1章2節の言葉「どうか あの方が、その口の口づけをもって、私に口づけして下さるように」です。 次に 詩篇85,11−12の言葉が この絵から湧き出ています。 それは「慈しみとまことは 出会い、正義と平和は 口づけし、まことは 地から もえいで、正義は 天から注がれます」という言葉です。

  何も言わずに、ただ 互いに抱き合う マリアとエリザベトの眼差しは 深いデリケートや繊細さのある愛情を表します。 又、この出会いの中には 知識があります。 エリザベトとマリアは 言い表せない喜びをもって お互いの秘密を知り合って、それを深く味わいます。 沈黙と静かさが この絵を満たしていますが、同時に マリアとエリザベトの服の流れ などに 命が豊かになると思わせるような動きが一杯あります。 風はないが 服は 確かに風に ふくらんでいます。 ヤコポは、聖霊の働きかけを こんな風に 表わそうとしました。 
 
  マリアとエリザベットは、顔と顔をあわせ、腕と腕をあわせていますが、更に、彼女たちの足を見ると 躍っているように感じられます。 確かに、彼女たちの足の指先は 地面に触れていません。 聖霊に満たされた二人は 既に 神の方へ 引き寄せられている感じがします。 ヤコポは こんな風に 救いの喜びと共に 聖霊によって 二人の心が喜び躍る というのを 見事に 表わしました。 ここには エリザベトの言葉:「あなたの挨拶の言葉の声を 私が耳にした時、胎内の子は 喜んで踊りました」(ルカ144)と マリアの言葉も:「わたしの霊は 救い主である神を 喜びたたえます」(ルカ147)響いています。
  さて、ヤコポ・ダ・ポントルモは わざと 時間の流れを無視して マリアとエリザベトとを 同じ状態で表わそうと 目立つように描かれています。 聖霊が 二人の体を芽生えさせ、実らせ、生命が 聖霊によって開花しています。

  しかしながら 深い暗闇が この救いの喜びを覆うのです。 ここで示されるのは 夜でなく、むしろ「朝早くまだ暗いうちに」という復活の雰囲気が 既に 示されています。 確かに、左側に 門のすぐそばに 座っている二人の人物を見分ける事が出来ます。 彼らは 私たちに まず、ヤコポ自身が 抱いている平和な時代への 強い期待を現し、次にザカリアの預言を思い起こさせます。 それは「高い所からあけぼのの光が我々を訪れ、暗闇と死の陰に座っている者を照らし、我々の歩みを平和に導く」(ルカ1,7879)と。 洗礼者ヨハネとイエスの誕生によって 全てが 新たにされることの第一歩です。 これこそ 救いの実現の始まりです。

  ここで マリアは 神の正義や 神への希望とゆだねの意味する 濃い緑の服を着ており、頭にピンクのベールをかぶっています。 マリアの後ろに立っている女も 同じピンクの色で 体をまとっています。 シンボルとして ピンクの色は 神の知恵と慈しみ、神への忠実、又 人の若さと幸せ、そして 福音的な貧しさを表します。

  年老いたエリザベトは マリアの服よりも もっと薄いグリーンの服を着ています。 この色は 生命力を初め、若返りや刷新、そして 新しい春の始まりを示します。 更に、エリザベットが まとっている服のオレンジ色は 神の愛の啓示と 人に与えられた聖霊の賜物、又、人が示す 節制や忍耐や我慢強さを表します。

   天からくだってくる光りは、皆の顔、特にマリアの首、エリザベトの顔、二人の手、次いで エリザベトの足を照らしています。 ある意味で、マリアとエリザベトは 頭のてっぺんから 足の指先まで 聖霊によって 命の光と救いの喜びで輝いています。 この命と光りの神秘が 私たちを引き寄せようとします。 なぜなら 命の実りで満たされている この二人が 暗闇の世界から出てきて、光をはなつ事によって 全人類に 輝かしい救いの道を開こうとしているからです。

   この後ろに 身動き出来ないように 描かれた二人の女性がいます。 召し使いと 思われるこの二人とも 表情のない、うつろな眼差しで 遠い所から来る何かをじっと見つめています。 彼女たちは 自分たちの目の前にある 場面を見ようとせず、又、私達の眼差しを 捜そうともしないので、私たちに不思議な気持ちを感じさせます。 ここには ヤコポ ダ ポントルモ の祈りが 結んだ実りがあり、又、シンボルとしての 意味もあります。

  ピンク 又は グリーンの服を着ているこの二人の女性は 召使ではありません。 実際に、この二人をよく見ると、ピンクの人は マリアによく似ていて、他のもう1人は エリザベトに似ています。

  第二のマリアのうちには  古いエヴァと 新しいエヴァのシンボルを 同時に見る事が出来ます。 つまり、彼女の髪の毛の形が エデンの園の蛇を現し、彼女の耳が 赤いリンゴのように見えます。 ここには 簡単に 原罪の罪のドラマが 描かれています。

古いエヴァと違って、新しいエヴァは 耳が赤くなる程 神の言葉を聞き留め、思い巡らし、全身を尽くして それに答えます。 新しいエヴァのマリアは その眼差しと姿勢によって 次のように 私達に宣言します。 「神が 何か言いつけたら、その通りにして下さい」と。(ヨハネ25


  第二のエリザベトは 年老いた第一のエリザベトより 美しく、若いように見えます。 というのは、若返りの恵みを味わっている彼女の姿勢は 体の復活を表現しよとします。 彼女は 既に、はるかに遠い未来に実現される 神の救いの完成を見ていて、その証人となっています。言葉を信じることによって、人が 内面的にも、外面的にも あらゆる面で新たにされる時が 必ず来る という事の証人です。 希望のないところに希望を置いて、信じ続けたエリザベットは 新しい出発と共に 全人類の刷新を 示しています。 若くなった彼女は 過去を忘れ、前のものを目指して、自分のすべてを尽くして 神が キリストによって与える救いを 待ち望む姿を示しています。 今から後 命、愛、真理、正義、平和が あふれ続けることは 確かです。

  後ろに 立っている 二人は、身動きも せず、うつろな眼差しで 暗闇を取りぬけようとしています。 そして、これから 始まろうとしている 言葉では 言い表せない未来へ 移っていく確信を 示しています。 前で 抱き合っている二人は 救いの光を浴びて、喜びに踊りながら 神の愛の神秘と 自分たちの内に働いている 生命力を深く味わっています。

  そう言うわけで 絵の左のすみに 暗闇の中に座り込んでいる二人の人間は 人類の過去を表わすのです。 そして、前に 絵の中央に 抱き合う二人は キリストが生れる時、救いの時を 私たちの現在として表わします。 更に、うしろに ぼうぜんとして、身動き出来ない二人は 私達の未来を表わします。

 さて、皆様、ヤコポ・ダ・ポントルモが 祈りの内に描いたこの絵は 私達自身の祈りの材料の土台となることが 出来るのではないでしょうか? 


 




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