徳 |
徳
私達が目覚めているように、キリストは招いています。 自分の心、考え、行いに対して明白な人となり、何時でも何処でもどんな状況でも、私の人生の門を開くキリストを迎える為に、目覚めている必要があります。 私達が福音の光りの中に生きたい、成長したいと望むなら、徳について考え、黙想するべきです。 徳はキリストの探求や神への歩みのうちに、キリスト者の人生と共に歩むからです。 福音の教えに従って私達はキリスト教的な振る舞いを持つよう力を尽くす必要があります。 それは自分の心と眼差しの清さ、自分の考えや行いの知恵と正しさを示し、また私の人生を支えている力と勇気、私達の振る舞いを導く節制と謙遜、最後に私達のすべてを養って強くする信仰、希望、愛を示すものです。
霊的な事実に対して細心の注意を払い、神の言葉を聞き分け、神の言葉に基づいて祈り、神の言葉を黙想する事を必要とするなら、同時に日常生活の具体的な事実や物事に対して、私達は目覚めている人、活躍している人として、具体的な事実と霊的に取り組む必要もあります。 つまり、聖霊に満たされたキリスト者として日常生活の具体的な事実と霊的に出会うことです。すると、私達の生きている今が神の時となり、私達は神とともに未来を準備し、神を信じ、神の約束に依り頼みます。 信者は自分の故郷が神の居られる所にあり、この追放の地上で、何が第一で何が第二かを区別する必要がります。
徳は信者に必要な助けを与え、正しい決定、知恵のある決定をし、自分の行いによって回りにいる人々に証し、模範となる力を与えます。 そこで私達は徳が何であるかをよく理解するために聖霊の助けを願い、徳を力をもって十全に生かすよう、聖霊に願いましょう。
聖書の教えによると完全な人は神を捜し求める人で、神に達する為に、神が整えている道を忠実に進みます。 と言うのは、神を捜し求める人はこの唯一の道においてだけ完全になれるからです。 この根本的な態度は聖書の中で何時も神と共に歩むと言われている事です。 旧約聖書によると、徳は神の言葉や神の意思に対する完璧な従順のうちに、神と共に真の生き生きとした関係を結びながら、神との深く安定した関わりをもって、自分の全てを神に向けて進みます。 神に向かって真直ぐ進むこの態度は人を正しくします。 聖書による徳は、神の眼差しのもとに完全になるために、忠実に神の整えた道を歩む事です。 創世記17章1節に「私の現存の中に歩み、完全な者となりなさい。」とあります。 これに対して、悪徳とは真の神を捨てて神以外の神々を選び、神との契約に対して不忠実になることで、神が憐れみと摂理で前もって整えた救いの道から離れ、それに逆らうことです。 そこで、聖書は徳に従った生き方とか正しい態度とかを模範として与えますが、徳という言葉を持っていません。 ギリシャ文化の中に徳という言葉はありますが、ヘブライ語に徳という言葉は全くありません。 なぜかというと、聖書は人間の観点から神を見るのではなく、神の目で人間を見る事、神は人間に対して人間が完全になるという特別な計画がある事、神がすべての人と一致し、またすべての人が互いに一致するように望んでいる事を述べ、神の観点から人間に対する見方を言うからです。 レヴィ記11章45節に「私が聖なる者だからこそ、あなたも聖なる者となりなさい。」とあり、マタイ5章48節には「あなたの天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」とあります。 聖書によると神は人を正しくしますが、人は自分の力で正しくなるのではありません。
ギリシャの文明と文化から徳という言葉が来ます。 旧約聖書の中でギリシャ語で書かれているもの、 例えば知恵の書8章7節には「誰か正義を愛する人がいるか。 知恵こそ働いて徳を得させるのだ。 すなわち、節制と賢明、正義と勇気の徳を、知恵は教えるのである。 人生にはこれらの徳よりも有益なものはない。」とあって、もし、正しい人となりたければ徳によってなれると教えています。 ここでカトリック教会のカテキズム1803の2には「徳とは善を行う健康な習性です。 それは単に良い行いをさせるだけではなく、自分の最善をつくさせます。 有徳の人は感覚的、精神的能力のすべてを挙げて善に向かい、善を追求し、具体的な行動をする時には善を選択します。」とあります。 だから徳をもっている人は善を行い、良い事だけではなくて、最も良いものを与えようとします。 霊的な力、具体的な精神を尽くして、徳を持っている人は善を追求し、具体的な行いでそれを示し、具体的な業で、善を選んだ事を証します。
ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語では力、能力は、徳と同じ様な意味があります。 ラテン語 VIRTUS (徳)は VIR(男の人)と同じ語根から出ています。 徳は力を示すもので、旧約聖書の中で、人間的な力はしばしば、権能と力を持ってすべての事を行う神に当てはめられ、殆どすべての詩篇に書かれていますが、特に詩篇65の7節、111の6節に、「御力をもって山々を固く据え、雄雄しさを身に帯びておられる方」 「御業の力をご自分の民に示し、諸国の嗣業をご自分の民にお与えになる」とあります。 新約聖書の中で力は活動的で効果的に行われます。 マルコ福音書5章30節にキリストについて、「イエスはご自分のうちから力が出ていった事に気付いて、」と書かれていますが、ギリシャ語で読むと、「イエスはご自分の内から徳が出ていった事に気付いて」と書かれています。 つまり善を行う徳がでる事で、力だけだと分かり難いです。 徳は善を行う特別なもので、今はあまり使いませんが、クラシックな使い方では道徳であり、モラルとも言えます。 ところで自然に人間から出てくる徳は自然徳、修練によって得られる徳でもあり、例えば、沈黙、忠実、従順など人間の持っているものを修練によってもっと良くし、誘惑に対しても強くなります。 この中で、謙遜、貞潔、忍耐、優しさ、寛大さ等の徳は、道徳的、社会的、自然的な徳で、体験しながら持つようになります。
この自然的徳の中で他の徳を支えている特別な徳があります。 これはVIRTUS CARDINALIS(枢要徳)であって、神から自然徳に加えられている恵みであり、正義、賢明、節制、勇気の4基本的徳と言われるものです。 神が直接に与える、人間に最も必要な徳です。 神学では、神から与えられた、人間に必要なこの徳を超自然徳といいます。 この徳によって人間、特にキリスト者は神に相応しい行いを行う事が出来ます。 キリスト教の伝統において、三つ超自然的な徳を他の名で呼んでいます。 これをVIRTUS THEOLOGALIS 対神徳といいます。 信仰、希望、愛で、神の命に与かる特別な賜物です。 この賜物は洗礼の時にだけ受けますが、例えば信仰は洗礼の時にはっきりと受けるのをご存知でしょうか? 私達は洗礼の時に「あなたは何を求めますか?」と聞かれて、「信仰を」と答えます。 だからその時まで信仰を持っていなかったといえます。
すべての人間に対する自然的な徳と、神が与える特別な超自然徳(慎重、正義、節制、力)と対神徳(信仰、希望、愛、キリスト者に対する神の特別な賜物))とはキリストによって聖とされ、愛の完成に導かれた人間に、その真の姿を与えます。 この7つの超自然徳は私達がこの地上にいるうちに永遠に向かって私達の歩みを支えます。 この徳のお陰で私達は霊的に成長し、益々正しくなり、罪によって変形した私達の顔から、神が私達のうちに置かれたご自分のイメージに、神の御顔にもっともっと似る者となります。 カトリック教会のカテキズムの中で徳の場所を特別なセクションに;第一部−人間の召命、霊に於ける生活というテーマにおいているのは偶然ではなく、徳がキリスト者の召命のための必要な土台である事を示しています。 ニュッサのグレゴリオは「徳に満たされた生き方の目的は神に似たものになる事である」と言っていますが、これは全キリスト者の召命ではないでしょうか?
以下の徳についての説明はわざと簡単にしました。 徳について正しい考えを持つのに充分だと思います。 欠けているところやより確かな明快さの必要なところを満たすために、聖霊が読者を照らしてくださるように! 神学者でない平凡な人でも、私の書いたものを易しく理解してくださると思います。 洲本 グイノ・ジェラール神父 2004年2月21日
virtus cardinalis - 枢 要 徳 |
PRUDENTIA 慎重さ (賢明さ) |
箴言 14章15節に「未熟な者は何事も信じ込む。 熟慮ある人は行く道を見分けようとする」とありますが、人間にとって慎重とは気をつける事、例えば社会の中で自分の振る舞いを支配し、人の話を聞き、食べ過ぎないようにとか、飲み過ぎないようにとか、喋り過ぎないようにとか、道路規則を守るとかに気をつける事だと言えます。 その意味は第一にまず注意深さだと言えるでしょう。 現代世界では何時も『気をつけよ!』と考えさせます。 しかし、聖書の中で、また教会の教父にとって、慎重さは深い意味を持っており、聖書では知恵と等しいものです。 例えばペトロ第一の手紙、5章8節で「身を謹んで目を覚ましていなさい。 あなた方の敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」と書かれ、同じく4章7節では「思慮深く振る舞い、身を謹んで、よく祈りなさい」と書かれているように、知恵のある人となりなさいと勧められています。 慎重さによって人間は神の光りを受けながら、日常生活の出来事を見分け、正しい行いをしますし、同様に人は出会う人々を慎重さによって、賢明と知恵と聖霊が与える光から識別し、真の出会いをします。
教会は「教会のカテキズム」1806で慎重さについて、「賢明とはあらゆる状況の下で、私達の真の善を実践理性に識別させ、これを実現する為の正しい手段を選ばせる徳です。 「熟慮ある人はいく道を見分けようとする」(箴言15章14節) 「思慮深く振舞い、身を謹んでよく祈りなさい」(1ペトロ4章7節) 聖トマスは賢明とは「行為の正しい基準」であるというアリストテレスの言葉を引用しています。 それは臆病や怖れ、表裏ある態度や偽善などとは無関係なものです。 諸徳の御者と呼ばれており、基準と尺度とを示しながら他の諸徳を導きます。 良心の判断そのものを導くのは賢明です。 賢明な人はこの判断に従って自分の行動を決定し、実行に移します。 この徳のお陰で、私達は倫理原則を個々の場合に誤まりなく適用し、行うべき善や避けるべき悪が何であるかという疑問を解決する事ができます」 以上のように、賢明さによって人間は良い事を捜し求める正しい行いをします。 だから賢明さは怖れ、恥ずかしさ、偽りと関係がなく、人の前でありのままにいる事で、すべての徳を導き、正しい行い、正しい判断の土台となり、自分の良心に従って人間が正しく行うことです。
聖パウロはコリント人への手紙1の2章6節で「私たちは大人になった信者に真の知恵を教えます。 しかし、この知恵はこの世のものではありません。」といい、知恵がこの世の支配者のものではなく、神から来るものだといいます。 聖ヤコブは自分の手紙の1章5節で「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」と付け加えています。 賢明さ、慎重さは知恵と等しいものですから、それを持っている人は出来事を処理するのに正しい判断を取り、人間として最も適当な方法は何か、どんな態度をとればよいか神の光りの中で判断します。 賢明で慎重な人は、福音に合うものと合わないものを直ぐに識別してから、自分の態度を決めます。
賢明さによって人間は状況を見、何をしたら良いか判断して正しい行いをする事が出来ます。 ある時は否定し、時には恥じをかかせることなく自分の不賛成を示します。 賢明さは勇気を与えるがお世辞を言わせないし、支配せず、自分を示さず、必要な時に口を閉じ、不完全なものを承諾しません。 賢明さは勇気をもって正直に、しかし、自惚れることなく忍耐し、すべてのものを支え、何をすぐ行うべきか、待つべきか福音の光によって判断します。 賢明さは危険を防ぐものではなく、「良い葡萄酒はコントロールされている」というフランスの言葉と同じ様に、危険はコントロールされています。 つまり大胆さを持つ賢明さは、危ないから何もしないということではなくて、時々賢明な人もあえて危険に挑むと言う事です。 これは丁度良い葡萄酒と同じ様に、この危険には高いレベルの価値があります。 例えば、聖パウロはエルサレムに戻る前に裁判を受けましたが、その時パウロは人々の中に、ファリサイ人とサドカイ人がいるので、賢明にも勇気をだして、「兄弟たち聞いてください。 私がここにいるのはキリストの復活を信じているからです」と言いました。 そこでファリサイ人は復活を信じるので、喧嘩を始めます。 これはパウロの賢明さで、勇気を出して自分を弁明するよりもキリストの復活を話した訳です。 ここでパウロは無事に裁判から解放され、高い利益を受けました。
賢明さ、慎重さ、知恵は人間であるキリスト者に自分のした行いに対する責任を与え、どんな結果があっても責任を取らせます。 賢明さの中には勇気と大胆さがあり、反応は早く、躊躇やぐずぐずしている事や疑い深さや臆病から飛躍します。 賢明さは何が私達を神に導くか? また何が神に逆らわせるかを示し、識別力をもって個人の行いの結果を引き受けさせます。 結局、賢明さ、慎重さによって私達は神と隣人との利益になるように働きます。 ミケヤ預言者はミカ書6章8節で「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む事、これである」といっていますが、イエスはご自分の全生涯にわたって、それを示されました。
賢明さの泉、それは勿論聖霊ですが、賢明さは識別の恵と一緒に成長します。 私達はメディアの世界の真只中にあって、色々なイメージ、つまり新聞、テレビなどのイメージの影響を受けていますが、賢明さによって私達は何時それを使うべきか、また何を見たり聞いたりすべきか、どこまで参加できるか?自分の意見をいうべきか、黙るべきかを理解し、知っています。 賢明な人はすべてを承諾するのではなく、時々その選択は非常に難しいが、良い、聖なる、正しい知恵の選択をします。 慎重、賢明、知恵は沈黙、祈り、黙想を自分を現すために利用します。賢明さはゆっくり考えるように、神の霊によって正しく行うように教えます。
賢明さの実りは知恵で満たされた人生、ハーモニー、円滑、魂の静かさ、内面的な穏やかさ、平和、平安、明晰さ、正義心で、最も重要なものをはっきり見るように、勇敢な責任のある決定をとらせます。 一言でいうと、人間にぴったりの幸せ、人間の測りに合った幸せを得させます。 簡単に言えば、賢明さは良い生き方の技術、テクニックを与えますが、このテクニックによって私達はすべてにおいて神と一致します。 知恵の書7章7節―14節によると、賢明であろうと、慎重であろうとこの知恵の徳は神の賜物ですから、人間にとってすべてを越える宝物です。 この賢明さによって私達はマタイ福音書25章1節−12節にある愚かな乙女の振る舞いを避け、 またルカ14章28節―30節の計算せずに家を建てる人や、マタイ7章26,27節のように砂の上に家を建てる愚かな人のような事はしません。 キリストのたとえ話しはすべて何時も知恵の言葉で、賢明で慎重な人となるための具体的な誘いでもあります。
具体的な例をあげると、使徒言行録10章と11章は100人隊長コルネリウスの洗礼の話ですが、最初の異邦人に聖霊が与えられた時、ペトロは賢明さによって、彼の行いの結果の責任を取りました。 彼はその前、祈りと沈黙の内に聖霊の声を聞いていて、コルネリオを見ながら、キリストが見せたものを思い出しました。 聖霊がくだると、ペトロは次の瞬間に決め、洗礼を授けましたが、これは賢明さからです。 エルサレムに帰った時、他の弟子達に対して、ペトロは自分の責任を取って説明し、他の人々も納得させました。 ペトロのように私達も沈黙と祈りのうちに賢明な人となり、福音の光りの中で賢明さを身につけよう。
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JUSTITIA 正義 |
正義は枢要徳で神から来る美徳とも言われ、神の計画に属しています。 信じている人にとって、これは根本的な要求で、それは信仰が神のうちに唯一の真の正しい方を認めるからです。 神は裁きますがが、(有罪の判決をする)決定的な刑の宣告をせず、むしろ悪い人を正しくします。 聖書は正義について深く考えますが、それは不正の印しが至るところに多すぎるからです。 聖書では、不正はある意味で神の否定であり、神の救いの計画に反抗するものです。これに引き換え正義は神の憐れみの宣言で、聖書の中で最も多く使われている言葉です。
カトリック教会のカテキズムの1807では、「正義とは、神と隣人とに帰すべきものを帰すという一貫した堅固な意志によって成り立つ倫理徳です」と記されています。
正義と言う言葉は、人間各自の権利を尊重させ、人間関係の中で、個人と共同善とに関する公平を促進する調和を求めます。 聖書の中でしばしば言及される正しい人というのは、日ごろの考えの正しさや、隣人に対する振る舞いの公正さの面で特に抜きん出た人のことです。 旧約聖書には「あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。 同胞を正しく裁きなさい。」(レヴィ記19章15節)、また「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。 知ってのとおり、あなた方にも主人が天におられるのです」(コロサイ4章1節)とあります。 正義は道徳的な徳であり、正しい人、つまり正義を行いたい人は、神に対してまた隣人に対して、彼らが受けるべきものを必ず与えようとします。 しかし正義という言葉は大抵の人にとって裁判で使われる言葉となっていて、裁判官は法律を守るために正義を行使します。 この言葉は人間の考えの中で判断と繋がっていて、人間的な判断とか、神の判断とかいいます。 聖書は度々正しい人、正直な人を褒め、神の法律に従って真直ぐに歩む人は幸いと言いますが、同時に創世記15章6節で「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書き、信じる人が正しい人とされるとあります。 聖パウロはロマ書1章17節で「福音には神の義が啓示されていますが、それは始めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。正しい者は信仰によって生きると書いてある通りです」、またガラテヤ3章11節で「律法によっては誰も神の御前で義とされない事は、明らかです。なぜなら正しい者は信仰によって生きるからです」、更にヘブライ10章38節で「私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適わない」と正しい人は信仰によって生きると何回も言っています。
聖アンブロジオは、正義は先ず社会的な生き方と繋がっており、全人類と繋がっているといっています。 正義があるから人間同士の関係がうまくいくのです。 例えば、レヴィ記19章15節では、「あなた達は不正な裁判をしてはならない。 あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。 同胞を正しく裁きなさい。」といって、裁きの時に不正な事をせず、貧しい人にも金持ちにも同じ様に判断せよ、と教えています。 また詩篇111,112では「正しい人の民は祝福され」とか、「正しい人がゆらぐ事はなく、正しい人は貧しい人にふるまい与える」とか正しい人について沢山書かれており、旧約聖書は正義について話す時、正義は共同生活の揺るぎない土台であるといっています。 人間間で、また人間と神の間で、正義はその関わり合いの中心に善意の秩序をおいています。 聖書でこの人は正しいと言う時、この人は聖なる者、完全な者、良い人だという事です。
新約聖書はこの教えをもう一度取り戻しました。 例えば、洗礼者ヨハネの両親、老シメオン、ヨセフは神の前に正しい人だと書いてあります。 福音を読むと正義はそれぞれの必要に応じて皆に必要なものを与える事だと分かります。 一人一人の人が社会的価値によって認められているのと同じ様に、皆が人間として認められ尊重されるように望む事です。 マタイ7章12節で「他人があなたにして欲しい事を、先ずあなたはその人の為にしなさい。 これこそ、律法と預言者である」とキリストは言っています。
人間の正しさはここにあるので、これをよく理解していただきたいです。 男であろうと女であろうと人生の初めから、母の胎内にいる時から、奪われない根源的な権利があります。 どんな民族でも、どんな皮膚の色、文化、文明、教育、財産、年齢などに属していても、すべて神によって作られました。 但し、神の似姿に象って造られました。 だから神のように権利があり、尊厳があり、それらの同じ源は神のうちにあって、神の創造の権威のうちにあります。 人間の正しさは神の創造的行いのうちにその由来があり、自分の出発点はここで見つかります。 神が私達を愛し、私達を望み、揺るぎない権利を持っている人として私達を造られたからこそ、もし私達がその権利に害を与えるなら、隣人として害を与えるとしたら、私達は神ご自身に害を与えることになります。 マタイ福音書に「その人にしなかった事は私にしなかった事である」と言うキリストの言葉がある事を思い出しましょう。
同様に、正義が神的な幅を持っていることを決して忘れてはなりません。 ですから聖書の中で神の正義を見ながら人間の正義を理解したいと思います。 聖書全体は神が私達の権利を尊重するだけでなく、私達が不当に圧迫された時、特に私達を救うと教えています。 それにも増して、神が私達の過ち、罪、反抗を赦し、ご自分の愛の力で私達を正して無罪とし、絶対に諦めず、限りのない憐れみをもって私達をもう一度神の子の権威の完全さに立ち戻らせます。 私達は父なる神の権威に対して害を与えたにも拘らず、神はこのように行われるのです。 罪人を正すこと、はっきりとした罪を見て、その人が有罪であるにも拘わらず、その人を赦すことは、法律的な教えとは全く違います。 罪があるにも拘らず、それを無視するような、矛盾したことばかり、神はします。 弁護士であるなら、プロとしての犯罪になります。 しかし、これが神の正しさで、悪い人を赦して正す素晴らしい専門的過ちです。
神はどうしても人間の裁き方や判断を超えており、無償で自分の愛を示されます。 この愛の印しは私達が待ち望んでいるもの、希望しているものをはるかに越えています。 神の正義は人間の正義よりはるかに広いです。というのは、この正義は罪の赦しを教え、神の救いが何であるかを教え、人を、特に悪い人を完全なものとし、咎められる所のない人とするからです。 神は正義、愛、憐れみをもって正義を示します。 神の正義は宇宙万物的であり、すべての被造物に及び、すべての作られた物と関係があります。 神は受けるべきもの、つまり尊敬とか愛とかを超えた全ったき正義であって、神の正しさは神の当然受けるべきふさわしさをはるかに越えて全正義といえます。 だから神は愛、慈しみ、赦しをもって正義を示すのです。
新約聖書の中でキリストはマタイ5章20節で正義について「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入る事は出来ない」と言っています。 またマタイ5章44節では「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。 モーセは目には目、歯には歯といって復讐を正義としますが、キリストに至っては神のようにしなさいと新しい正義を教えています。 ルカ20章25節で「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエスは言われますが、「神のものは神に」と言う、神に対して示す正義は宗教的徳といわれます。 私達は神によって造られたから神にすべてを返さなければなりません。 すべては神のものだから・・・・・ 礼拝、賛美、感謝、愛、み言葉を聞く事、神の正義の行いに対する信頼、信仰これを神に示さなければならなりません。 これに反して、罪はすべて神に対する不正で、神を否定し、神を無視する不正な行いです。
正義は神と隣人に、彼らが受けるべきものを与える事で、神が待っているもの、神が受けるべきもの、隣人が受けるべきものを与える事は、取るべき責任であり、正義の行いで、神も隣人もそれを受ける権利があります。 私達の責任の領域は非常に広く、正義は私をすべての人の責任者とし、全人類に対する責任を私達に与え、私達の世の未来に対する責任をも与えます。 もし私達が神の望まれた創造の中に正義がある事を忘れるとしたら、もし神がすべての正義の泉である事を忘れるとしたら、私達はファリサイ人のように、また律法学者のように高慢な人となり、自分の正しさ対して盲目な者となるに違いありません。 かえって、もし神が私達に対してどのように行っているか、世の為にどんな風に正義の業を行っているかを見るとしたら、私達はもっと易しく神のように完全で、聖で、正しく、憐れみ深く、良い人となるに違いないでしょう。 そこで、ヤコブ2章13節を見ますと「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。 憐れみは裁きに打ち勝つのです(むしろ憐れみは裁きをあざ笑う)」とあり、マタイ5章7節には「憐れみ深い人々は幸いである、その人は神を見る」と書かれています。
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FORTIA 力 または 勇気 |
詩篇118の14節に「私の力と私の叫び、それは主」と書かれています。 例えば無理解な状態の中で、孤独に置かれた時などに、力の徳は私達に行う勇気とすべてを忍耐する恵を与えます。 力は人の意思に反する強制的な力でもなければ、又、人の意思を無視して強制的に何かをさせる力でもなく、暴力的な力、愛徳のない力でもありません。 徳の力は人の良心の自由を尊敬し、慎重さと正義に関係があって、すべての状況において善を行って豊かに生きる可能性を与える力です。
カトリック教会のカテキズム1808によると、「勇気とは困難にあっても断固として粘り強く善を追求させる倫理徳です。」と書かれています。 社会的状況、家庭的状況、仕事の状況の問題に直面して、力が善を行う恵を与えます。 更に簡単な解決の罠に陥るのを防ぎ、問題がないように逃げるのを防ぐと同時に、不満、不平、不満足に陥ると言う悪い態度を防ぐのも力です。 続いて、「誘惑に抵抗したり、倫理生活の障害を克服したりする決心を固めさせてくれるものです。 勇気の徳は死の恐怖さえも克服し、試練と迫害とに耐える事が出来る様にしてくれます。 正義を守るためには自分の命を捨て、犠牲に供する事さえ厭わせません。 「主は私のとりで、私の歌、」(詩篇118,14節)「あなた方には世で苦難がある。 しかし勇気を出しなさい。 私は既に世に勝っている。」(ヨ16章33節)」とも書かれています。
自分よりも強い世代に生きているキリスト者、暴力の世代に生きているキリスト者は、無力であって、彼らは神に力の恵を願います。 ただし、もし、神がその恵みを与えるとしたら、もし神が人間を強い者とするとしたら、それは先ず第一に力を強められた人が神の意思を行うため、また神の救いの計画を行うためです。 困難の時に恵が与えられるのは、自分のしたい事をする為でなくて、神の御旨を行うためで、これは救いの計画と深い関係のある徳です。 申命記8章17節には、「あなたは自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと考えてはならない」と書かれていますが、この力が与えられると私達は、詩篇18章と62章3節の「神が私の岩、私のとりで、私の城壁、私の避難所、神が私に力を与え、高い所に私を立たせる」などの言葉の様に感謝の祈りを自分の内に抱く恵みを受け、神に力を与えてくださいと願う人は、神の救いの計画を実現する恵みを願っていることになります。 だからキリスト者はマリアの様に謙遜に神は私の力、神なしに私は何もできないと知っており、この力の恵は徳として必ず信じた人を謙遜と委ねの道に導くものです。
力によって私達は自分の怖れ、自分の認めうる、または認めたくない恐怖を乗り越えられるとカテキズムには書いてあります。 私達には自分の認める不安、認めない不安があります。 力の徳は、私達に苦悩の時、誘惑の時、絶望の時、試練の時、自殺したい時を責任を持って受け止める恵を与えます。 恐怖、疑い、内気さのせいで私達が実現出来なかった事を力の徳は可能とします。 責任を引き受け、状況を意識的に受け入れること、例えば、脅迫に対しても責任をとってそれを引き受け、また疲れきって、飽きる時もその気持ちを乗り越えるのは、この恵です。
力の徳が私達は弱いということを認めさせるのです。 パウロが言ったように、私は弱い時こそ強いというのは力の徳が働いたからです。 2コリント12章7節以下に、「またあの啓示された事があまりにも素晴らしいからです。 それで、そのために思い上がる事がないようにと、私の身に一つの棘が与えられました。 それは、思い上がらないように、私を痛めつける為に、サタンから送られた使いです。 この使いについて離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。 すると主は、『私の恵はあなたに充分である。 力は弱さの中でこそ、充分に発揮されるのだ』と言われました。 だからキリストの力が私の内に宿るように、むしろおおいに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストの為に満足しています。 なぜなら、私は弱い時にこそ、強いからです。」 と聖パウロは書きました。 今、私は弱いからこそ力の恵を与えられました。 人間の最高の弱さは死であって、力の徳は私達が恐怖を乗り越える為の大きな助けとなります。 たとえば正義の為、信仰の為に迫害されている人は、殉教の力を受け、自分の命を捧げながら、力を示し、自分の信仰を捨てるよりも、死を選びます。 これは真の殉教者で、教会の教父たちは殉教は他の何よりもキリスト者の力を示すものであると言っています。 同時にこの殉教という恵は神から来る特別な恵であることも認めています。
力の徳が私の弱さを支えるからこそ、その力が同時に平和、平安、喜び、深い、落ち着いた雰囲気を与えます。 自分の弱さを強めながら、試練に対して、誘惑に対して、苦悶に対して、拷問に対して、耐え忍ぶ良い方法を与えます。 アクイナスの聖トマスは、「ある人が寂しさを耐え忍ぶ時こそ、その人は強い人と認められる。」と書いています。 力の徳は自分を神の手の中において、喜んで神に委ねる様に導き、平安と穏やかな喜びに留まらせます。 力は同時に平安、安らぎ、忍耐、信頼の状態をも与えます。 しかし聖パウロが、2コリント4章7節で、「私達はこのような宝を土の器に納めています。 この並外れて偉大な力が神のものであって、私達から出たものでない事が、明らかになるために」と述べているように、私達は神の賜物として与えられた力を土の器で持っている事を忘れてはなりません。 つまり値打ちのある宝物を私達は土の器で持っているので、弱さの中に宝物である力を持っていることになるのです。
私の人生の日々にとって力の恵みは必要で、特に私達の世界が暴力、不正、妬み、差別、殺人などが増えてくる世代である事を考えると、その必要性には切実なものがあります。 例えば結婚した人にとって、互いの一致を失わないために、また子供の教育について気を配るために、自分の仕事をし続ける為に、すべての思いがけない社会的、家族的な問題を乗り越え、解決するには、力の徳が必要です。 だから簡単な解決を防ぐ為に、問題がないように逃げる習慣を直すために、不満に落ち込んで人と出会わなくなるような時に、力の徳が気持ちを明るくし、出会いの恵で強めるように働き、フラストレーションから解放してくれる必要があります。 力の徳は必ず十字架に付けられたキリストに、自分の命を捧げ、死なれた方のほうへ私達の目を引き寄せます。 罪なく迫害され、恐ろしい苦悶を受けながら死を迎えるキリストは、それを赦し、そして完全に神の手にご自分を委ねました。 十字架に付けられたキリストを見ながら、私達は力の徳が何であるか分かるでしょう。 キリストは弱い時こそ強いのです。
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TEMPERANTIA 節制 |
シラ書18章30節に「欲望に引きずられるな。 情欲を抑えよ。」とあり、パウロのガラテヤの信徒への手紙5章22、23節には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書かれています。
ラテン語ではTEMPERANTIAですが、このラテン語の意味は違った要素を調和のある一致したものとして集める事です。 たとえばフランス語では違った色を一緒に合わせて綺麗に tempereすると言います。 またフランス語の le climat tempere は気候が穏やかで暑さと寒さが調和を保っていると言う事です。 ここで temperament と言うのは性格で、人間がもっている個人的性格のバランスの事を言い、いわばその人のバランスがどんな風にとられているかという事になります。 この節制は自分を支配する事、セルフ・コントロールする事、調和、整理、自制する事といえます。 節制は自分の望み、希望、情熱(パッション)を抑える人の徳で、たとえば沢山飲まないように、沢山食べないように、お金を沢山使わないように、無駄使いしないようにというのは節制でtemperament と関係があります。
ロ−マ人への手紙13章12−14節で聖パウロは「夜は更け、日は近づいた。 だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を見につけましょう。 日中を歩むように、品位を持って歩もうではありませんか。 酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。 欲望を満足させようとして肉に心を用いてはなりません」と述べています。 だから節制というのは、自分を尊敬する事に等しい事です。 節制によって人間が自分を支配する事が出来、自分に打ち勝ち、同時に静かで、穏やかで、柔和な、バランスの取れた者となります。
これは、自分を支配する為に昔の修道者たちがしたように、自分を鞭打つとか、断食するとか、苦しみを与える節制とか、自分の命に危険を与える節制ではなく、霊的にも身体的にもバランスのある支配で自分を抑える事です。
更に、これはキリストを真似る道でもあります。 自分を作られた神に似る為に、節制はどうしても必要な恵であると言えます。 どうして節制とキリストに似る事とは関係があるのでしょうか? というのはキリストが自分の全生涯にわたってその恵みを示したからです。 罠の前にあっても怒らず、冒涜の前でも静かに留まって、彼の生き方は非常に整理されています。 自分の受難、十字架の上の死、これらは神の救いの計画にぴったりとはめられています。 だからキリストの活躍、言葉は人々への愛の中に均衡が取れており、キリストのうちには深い調和があって、キリストの感情、望みはすべて一致しています。 この節制は色々な聖人のうちに見出されますが、特に喜びを持っている聖人、柔和な人、共感する人と言えば、アッシジのフランシスコなどではないでしょうか。
カトリック教会のカテキズムの1809に「節制とは快楽の誘惑をおさえ、この世の善を程よく用いさせる倫理徳です。本能に対する意志の支配力を保証し、欲求の中庸を保たせます。 節制を保つ人は自分の感覚的欲求を善に向かわせ、健全な控え目を守り、欲望のままに生きることがありません。 節制は、旧約聖書の中でしばしば称揚されています。 「欲望に引きずられるな。情欲を抑えよ」(シラ18章30節)。 新約聖書では、「節度」あるいは「慎み」と呼ばれています。 わたしたちは「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活」(テトス2章12節)しなければならないのです」とあります。
節制は飲み物や食べ物に対しても、賢明に人を導きますから、健康と断食、何かを断つこと、慎む事、控える事をすすめ、美しくあるように世話をして、身体的にも、精神的にも、霊的にも神の栄光のために、隣人への愛のために健康であるように、また美しくあるようにすすめます。 美しさを保つとか、スタイルをよくするとかは節制ではなく、神の栄光と隣人への愛の為にのみ節制をするのです。 節制はまた人間の本能と性についても支配するので貞潔と関係があります。 清さ、つまり自分の耳、目、動作、想像などを節制の下に置くことです。 これは自分がどんな本を読むか、どんなテレビを見るかに関係があります。
また節制は物質的なものの使い方に関しても私達の目を開きます。 例えば、お金を使うにも、無駄使いしないように、またケチにならないように、丁度良い使い方というものを示すのが節制で、自分がより多くのお金を持ち、贅沢な生活をする傾きにブレーキをかけます。 だから節制は私達をケチから癒し、無駄使いの傾きから癒し、すべての度を過ごす事からから守ります。
自分が認められるように、力を持つように、何時も成功するようにという傾きから私達を守り、皆からほめられたいと願ったり、どうしても自分が必要な存在だと考えたり、高慢と傲慢の思いで人を見たり、自己愛、自分の与えたいイメージを主張する傾きから、私達を守るのが節制です。節制は信じる人が単純に生きるように、偽善のない生き方、真理のうちに生きる方法を教えます。また自分が復讐したい望みとか、忍耐のない態度、癇癪を起こしたい心とかにブレーキをかけてくれます。 節制は単純さ、社会的、家庭的平和の道であり、許し、忍耐、均衡の取れる状態に私達を置き、心は改心し、祈りは豊かになります。 1ペトロ4章7節で聖ペトロは「祈る為に酒を飲まないで、智惠を示しなさい」と言い、「万物の終わりが迫っています。だから思慮深く振る舞い、身を謹んでよく祈りなさい」とも言っています。
節制はどうしても必要な徳で、私達の人生の生き方を美しく、調和のあるものとしてくれます。教会の教えではこれは子供の時に、まだ若いうちに早くから教えるものだとされています。 それは子供が毎日小さな犠牲や節制によって、自発的に自分を支配する事が出来るようになるためです。 節制によって人は毎日いよいよキリストに似る者になります。
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VERTUS THEOLOGALIS ー 対神徳について |
FIDES 信仰 |
神徳には信仰、希望、愛の三つがあります。 聖パウロのテサロニケの第一の手紙に、私たちを導く三つの神徳が見出せます。 「私達は祈りのたびに、あなた方のことを思い起こして、あなた方のことをいつも神に感謝しています。 あなた方が信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私達の主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(1テサ1章2,3節) この三つの対神徳は神を土台としています。 自分を啓示する神の内にある三つの重大な恵で、そうでないとこの恵は存在できません。 私達の希望、愛、信仰の泉は神の愛のうちに、人間に対する神の愛のうちにあります。 また、聖パウロが言ったようにキリストを通して示された愛のうちにあり、聖霊の交わりが人間の心のうちに神の無償の愛を注ぐから、聖霊の交わりのうちにあります。 そのために、人間は信じること、愛すること、希望することが出来るのです。 神がなければ愛する心がなく、神がキリストを通してそれを示したから、キリストが聖霊を通してそれを示したから、人間もまた愛すること、希望すること、信じることが出来ます。
そのためにこの三つの徳は、対神徳、神から来る恵と言われています。 この恵が神と直接関係するだけではなくて、神の恵が私のうちに生き生きとしたものになることを可能にするのは神であるという事です。 ある意味で神の命が私達のうちに注がれていて、神の言葉を信頼する人は、聖霊によって希望すること、信じること、愛することも出来るのです。 これは肉になったキリストにおける信仰、愛、希望です。 前に勉強した慎重さとか正義とか力とか節制は自分の力によってそれを実行できますが、この三つの徳、信じること、愛すること、希望することは、無償で自由な神の主導がなければ出来ません。
信仰そのものについて話すよりも、信仰の色々な態度について話すほうが易しいです。 洗礼を受けるとき、教会に何を願いますか? 「信仰を」、信仰が何を与えますか? 「永遠の命を」というのはこういうわけです。 信じる者の父であるアブラハム、モーセ、サムエル、マリアの信仰について、また彼らの信仰を宣言している、新約聖書のなかの知られざる人々すべての信仰を引用する事が出来ます。 信仰は聞く、受け入れると言う簡単なことばで始まります。 「私はここにおります・・・あなたの召使は聞きます。 お話しください・・・お言葉のとおりになりますように・・・」(創世記22章1節、出エ3章4節、1サム3章4−10節、ルカ1章38節)
信仰によって人間は神にたいして完全に自由になり、神を宣言します。 ですから信仰の宣言は神への同意の出発点です。 これは神の救いの計画の啓示を人間が受け入れるということを、決定的で自由に行う徳の業です。 キリスト者はイエス・キリストの死と復活の内に救いの計画が完成された事を、聖霊によって救いが与えられる事を信じます。 簡単に言えば私達は「父と子と聖霊の御名によって」というとき、その態度でキリスト者としての自分の信仰を宣言しますが、十字架のしるしはそれを一番まとめたものです。 私の信仰は神に、「はい、その通り」と言う事であり、あなたが話した事、あなたが啓示した事、教会が説明する事を全部信じますと言い、その教えについて「はい」アーメンと言う事です。 いわば盲目的に私たちは神が真理、神自身が真理である事を信じることと言えます。
教会のカテキズム1814に次の様に書いてあります。
「信仰は対神徳です。この信仰の徳によってわたしたちは、神と、神が私達に語られ啓示されたこと、また教会が信じなければならないこととして教えるすべてのことを信じます。神は真理そのものだからです。信仰によって、「人間は、自由に自分自身を全く神にゆだねるのです」と。
それゆえ、キリスト者は神のみ旨を知り、行うように努めます。「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1・17)のであり、生きた信仰は「愛の実践を伴う」(ガラテヤ5・6)のです。 先に言ったように教会に何を願うかと聞かれれば、洗礼志願者は代父、代母、両親も信仰と答えます。 聖書によると信仰はすべての宗教的動き、決意の中心であり、信仰によって人間は神と出会い、神とつながり、神と自分のすべてを結ぶことになります。 神は時の流れの中でゆっくり救いの計画を実現しますが、人間は自分の時代に応じて、その計画に「はい」と答え、信仰を示します。 故に2000年前から、もっと前の、アダムとエヴァから始まった救いに対して、私達は今日それを信じて、はい、その通りだと、真理として宣言するのです。
ヘブライ語によると「信仰」と「信じること」と2つの言葉があります。 一つの言葉は「アマン」と「アーメン」で、「確実さ」「堅さ」を意味し、もう一つの言葉が「バタ」で「安全さ」「信頼」と言う意味です。 この「バタ」に関係するギリシャ語の言葉が「エルピス」で、ラテン語では「コンフィド」となります。希望する、信頼するという意味です。 「アマン」に関係するギリシャ語「ピティシス」はラテン語で「フィデス」となります。 そこでギリシャ語とラテン語はヘブライ語と同じ強さを持っていませんが、ギリシャ語もラテン語も信頼と忠実という方向を示しています。 つまり信仰者は神に信頼を置く忠実な人ということで、自分が見えない事実に基づいて自分の人生を形作り、しるしによって、また言葉によって啓示されたものに、自分の心と知恵を置く人です。 そのしるしと啓示されたものが彼に見えず、理解できない事実を承諾し、この事実に基づいて自分の全生涯を築く事ができる人です。 言い換えれば、しるしと言葉によって示されたものと、自分の心と魂とを一致させる人と言えます。 私のすべての「アーメン」は「はい、その通り、私はその通り信じます。 私の信頼すべてを、言われた事、宣言された事の中に置き、私は神に対して信頼を持ち、決意をもって委ねます」と言う事で、私達は確かにその通りだと固く信じています。
信仰は神が教会に与えられた賜物で、その賜物によってキリスト者は神と、神が行う事、神が言われる事と、自分自身とを結ぶ事が出来ます。 キリスト者としての態度はすべて信仰のうちに由来があります。 例えば祈り、黙想、観想、自分の個人的努力、共同体的協力などで、信仰のうちに泉を見つけます。 信じることで私達は神の命が自分の内にはいるようにします。信仰は神との交わりのドアで、私達は信仰をもっているから神によってすべての人と結ばれているのです。 信仰宣言の中でこれは「聖徒の交わり」です。 信仰によって私達は父と子と聖霊、つまり神との一致に入り、キリストによって贖われた全人類、あらゆる時代の人達との交わりに入ります。 それで信仰は人間が神の愛の掟を行う道となります。 その掟とは、「心を尽くし、智惠を尽くし、力を尽くして、神と燐人を自分のように愛すること」です。 日本語の聖書では二つの文になっていますが、ギリシャ語では一つ文で、前記のようです。 信仰は自分が受けた賜物であるが同時に実現すべき使命でもあります。 私達は自分の生き方によって、全世界の人に神と共に親密に生きる事ができることを見せ、啓示し、宣言しなければなりません。 キリスト者は自分の信仰に忠実で、自分の生き方によって、世界の人に対して全生涯にわたって、自分が信じた事を証しする人であると信じる者といえます。
信仰はしばしば智惠、理性、感情、疑いとぶつかります。 特に疑いは信仰の中に入ろうとします。 信仰は特別なもの、つまり神の賜物なので、智惠、理性、理論で理解し、説明する事は出来ません。 何故なら信仰は見えないものを真理として信じ、私達の理解をはるかに越えているものを確かなものと信じているからです。 きちんと聖書を読まない信者、共同体の生き方に参加しない信者は必ず何時か自分の信仰が消え、かえって疑問とか疑いとかが溢れてくると知るでしょう。 同時に色々な宗教的動作(十字架の印、跪く事、頭を下げる事など)を考えずに、習慣的にしたり、典礼的な応え(アーメン、キリストに賛美、感謝と賛美を捧げましょうなど)を自動的にする人達も、自分の信仰が足踏みをし、信仰になるよりも、迷信に近いものになり、思い込みの中に行うようになると分かるでしょう。 その結果、祈りに与えた時間は消え、み言葉の分かち合いに対しても無関心で、結局、信じたものを失っても問題にならなくなります。
自分の感情、自分の気持ちを振るい立たさない霊的な乾き、主の前で何も感じない、主の前でつまらない、私の祈りは空っぽ、祈りをしてもすぐ寝てしまう、というような態度は、もしこれを非常に重大なものとして取り上げるなら、信仰に対して危険なものになります。 自分が感じたものを大切にしすぎるのは危険です・・・ ルカの福音9章18節に「イエスが独りで祈っておられた時、弟子達は共にいた。そこでイエスは群衆は私のことを何者だと言っているのか?と尋ねられた。」とあります。イエスは弟子達の中で祈っているのですが、ここでイエスも急に気を散らせて弟子に尋ねられるのです。このために私達はイエスが本当に人間であったと分かります。 しかしイエスは自分の感情とか気持ちをそんなに大切にしなかったから、すぐに祈りに戻る事が出来ました。 祈れないからといって祈る事を止めたら、信仰が消えます。 信仰が厳しい時強くなり、忍耐をもって神を捜し求め、祈り続ける必要があります。 黙っていて、隠れている神を自分の岩だと認識し、全く理解できない神を捜し求め、自分の想像でなく、自分の感情、気持ちでなく、ただ神だけをずっと捜し求めることです。 だから信仰は、勇気、忍耐、自分に対して明白である事を要求します。 私達の信仰を養い、成長させる神に対する完全な信頼が必要です。
信仰は改心の道でもあります。 私達の考えを神に向かせ、神の愛の計画、神ご自身に応じて私達の行いと言葉をキリストの行いと言葉に一致させるのは信仰です。 神の真理、神の現存に応じてキリストのうちに、キリストの為に、キリストと共に考え、行わせます。 「私達が信仰の恵を受けたのは、私達の為に生きるのではなく、私達の為に死んで、復活されたキリストに生きるために、父よ、子は信じる者に 最初の賜物として、あなたのもとから聖霊をつかわし、聖霊は世にあってその業を全うし、すべてを尊いものになさいます。」(第4奉献文)と私達はミサのとき宣言します。 実に信仰の目的はこれです。
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SPES 希望 |
希望は人格とその判断に基づいて行われるが人間は偽りの希望を持つ事が出来ます。人間の生活は未来に向かうもので、計画も希望も期待もなく、また実現できても、実現できなくても、夢を持たずに生活はできません。しかし人間の生活の中では幻が多く、絶望する事もあり、自殺まで至る人もいますが、失敗を前にして人間は新しい希望を持つ事も出来ます。 絶望のなかに希望をおく力を持っているのが人間です。
フランス語では、ESPERANCE と ESPOIR は違いますが日本語では難しいです。 人間の希望と神の希望には違いがあります。 神から来る希望には全く偽りがなく、神の約束に深く基づいていて、約束の中に根を降ろしています。 私達には神によって愛のうちに選ばれている確実さがあります。 聖パウロのヘブライ人への手紙10章23節には、「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」とあります。 神の約束と自分の日常生活との間に深い淵があり、私達は神の約束だけを見すぎて、結局、自分の内に疑問や恐れが全くなく、そのために苦しみとか死とかに対する態度がありのままでなくなります。 たとえば死を恐ろしいものとして見ず、苦しんでいる人の所に来て、神があなたを大切にするから大丈夫と言う事などは、苦しんでいる人の状態をありのままに見ず、人の苦しみに共感しない態度といえます。 神が良い事だけをすると考えて、死と苦しみをありのままに見なくなる事もあれば、また逆に自分の困難とか、災いばかりを見て、神の約束の意味を見失う事もあります。 神から来る希望は、特に神と共に自分の苦しみ、自分の災いを見るように教え、日常生活の為に具体的な教えを与える筈です。
キリスト教的な希望は、特に十字架につけられたキリストを見ながら形作られていきます。キリストの死を見ながら、私達はその死が復活の印であることが理解できます。 希望は何時も苦悶や恐れを平和のうちに抱くものです。 たとえば地震の時、余震におびえながらも平和を抱いたではないでしょうか! キリスト教的希望はキリストの来臨を待ち望み、信者が何時でも何処でも自分の日常生活の中にキリストが来られる事を発見させます。 神が私の日常生活の中に居て、ここで働き、恵を与えて私達を守る事を見出します。 カトリック教会の教え1817には「希望は対神徳です。この希望の徳によって、私達はキリストの約束に信頼し、自分たちの力ではなく聖霊の恵の助けに依り頼みながら、私達に幸せをもたらしてくれる天の国と永遠のいのちとを待ち望みます。 「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」(ヘブライ10章23節)「神は私達の救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を私達に豊かに注いでくださいました。こうして私達は、キリストの恵によって義とされ、希望通り永遠のいのちを受け継ぐ者とされたのです」(テトス3章6、7節)とあります。
希望は神が忠実である事、神が必らず約束された事を実現すると言う事を固く信じることです。希望の由来は人間のうちに、地上的な幻のうちにあるのではなく、神の内から出てくるものです。 これは信じた人に与えられた神の豊かな賜物で、信仰と繋がっています。 希望する事は私達のうちに与えられた恵であって、神に完全に委ねる事であり、神がその恵を養い、成長させ、強めます。 希望は神のうちに泉があり、神の忠実さに基づいているのです。 そして遠かろうと、近かろうと、来るべき未来を目指しており、何時か私達は神と完全に一致し、神に似ている者として顔と顔をあわせて神を見、永遠のいのちを味わいます。 希望の目的とは、神の現存で満たされ、神の約束の実現を見る事です。
信仰によって私達は神のいのちに与かっていますから、希望は、説明できない、深い神秘の中に私達を引き寄せます。 これは考えられない神秘であり、聖パウロはローマ人への手紙8章24節で、「私達はこのような希望によって救われているのです。 見えるものに対する希望は希望ではありません。 現に見ているものを誰が望むでしょうか?」と言い、1コリント2章9節では「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心の思い浮かびもしなかった事を、神はご自分の愛する者たちに準備された」とあります。 準備されたものすべてを私達に希望として与えられているわけです。 希望は神が私達に与えるものすべてで形作られ、もし私達が神に盲目的な信頼を示すとしたら、その希望は私達のすべてを満たすのです。
キリスト教的希望の目的は、栄光の中に来られ、私達を変容するためのキリストの来臨を待ち望む事であって、私達は神の愛のうちに変容され、キリストの栄光に与かる者となります。 主の祈りの後で、「私達がすべての困難に打ち勝つ事が出来ますように。 私達の希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と祈ります。 教会の希望は何時も喜ばしい希望であり、試練の中にあっても、苦しみの中にあっても、喜ばしい、輝かしい希望であります。 1ペトロ4章13節で「むしろ、キリストの苦しみに与かれば与かるほど喜びなさい。それはキリストの栄光が現われる時にも、喜びにみちあふれるためです」と言い、また1ペトロ1章8節で「あなた方は、キリストを見た事がないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉で言い尽くせない素晴らしい喜びで満ち溢れています」とも言われています。 つまり、約束された栄光はとても偉大だから既に現代の中にそれを見ることが出来、同時に希望は地上のもの、物質的なものから離れる力を与えます。 また希望は祈りと共に節制、隣人愛を育てます。 1ペトロ4章7−11節では「万物の終わりが迫っています。だから思慮深く振舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。 何よりも、先ず心を込めて愛し合いなさい。 愛は多くの罪を覆うからです。 不平を言わずにもてなし合いなさい。 あなた方はそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みのよい管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 語る者は、神の言葉を語るに相応しく語りなさい。 奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。 それはすべての事において、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。 栄光と力とが世々限りなく神にありますように。アーメン」とあります。 聖パウロは希望を錨で示していますから、私達は自分の日常生活の錨を神のうちにおきましょう。
しかし、キリストが来られると、裁きがおこなわれます。 秘められたものは光りのうちに全部明らかにされます。 公に皆の裁きが行われ、この裁きには弁護士はいません。 神の裁きは真実で正しく、聖なる裁きといえます。 この事を考えると私達は恐れと恐怖を持つかも分かりません。 その恐怖がないようにどんな風にすればよいかの答えは簡単です。 それはキリストのうちに希望を置く事です。 キリストは救い主として彼のうちに希望した人を必ず救います。 キリストが裁く時「私はあなたのために自分のいのちを与えました。 あなたの罪の為に私は死にました。 だから私はあなたを救います。 あなたが盗賊と同じ様に私に希望を置いたから、救いに相応しいものです。」と言われます。 神はどうしても希望した人、神を信じた人を深い憐れみをもって見ています。 洗礼によって、キリストの死と復活の内に眠りについた人、キリストの言葉を信じた人、キリストの許しを受けた人などはキリストの内に希望のあることを示したから、キリストと共に一致して救われるのです。
こういうわけで、希望が裁きの恐れから私達を守り、救います。 かえって私達は死ぬ時、神のうちにすべてをおき、神に委ねる力が与えられます。 神から来る希望が、裁きを受けるために良く役立つ必要物を私達に与えます。 平和な心で私達を罪と死から救うキリストと出会うための心構えをしましょう。 その希望が私達を死からよみがえらせるのです。 他の言い方をすると、希望をもつ人が憐れみの神秘の中に深く入って、キリストと共に永遠の為に父の愛のうちに沈みこむのです。 希望は私達に贖いの神秘を受け止める知恵を与えます。 ミサ祭儀が行われるたびに、自分自身を生贄として捧げるキリストと共に、自分のすべてを委ね、捧げましょう。 希望は疑いもなく自分の救いのみでなく、すべての人の救いを願うように教えています。 深い信仰と愛をもってすべての人が改心するように、神に戻るように、神の光りを見つけるように・・・
1ティモテ2章4節では「神はすべての人々が救われて、真理を知るように望んでおられます」とあり、エゼキエル18章23節には「私は悪人の死を喜ぶだろうか?と主なる神は言われます。皆がその道から立ち帰る事によって、生きる事を喜ばないだろうか?」といわれるのです。 だから私達は希望を持って、ミサの時にすべての死者の為に祈り、すべての罪人の為に執り成す人となりましょう。 自分の心の中にその責任を育てて、「主よ、私を哀れんでください」ではなくて、「私達を哀れんでください」といいましょう。 すべての人の為に、すべての人になったキリストのように、私達は信仰と希望を担ってすべての人の兄弟となり、すべての人の為に執り成す者となりましょう。 希望に溢れた執り成しはすべての人間的な状況を神との交わりの中におきます。 キリストがすべての人の為に死んだから、時をおかずにキリストとも結ばれているのです。
キリスト教的シンボルの中にある希望
希望はいろんな風に示されています。 何時も女性の姿で、左手でミツバチの巣、右手で土を耕すもの、また3つの鎌を持っています。 彼女は鳥を閉じ込めた籠を持ち、それの上に彼女はのっています。 頭の上に時には船、時には錨だけがあります。 手の中にミツバチでもなく、鎌でもなく、豊堯の象徴の角を持っていることもあり、花の咲いた一枝を持っている事もあります。 また時には栄光の冠を取るために上に手を伸ばしている、羽のある婦人として描かれている事もあります。 スクロヴェーニのジョットはこのように描いていますが、時代によって変わります。
この意味は簡単で、鎌や土を耕す器械やミツバチの巣は、何を示すのでしょうか? 畑で働いている農夫の希望を表わしています。 自分の苦労が実を結ぶと言う希望です。 彼は沢山の種を撒きたいから土を耕し、3つの鎌を持っているのは豊かな収穫を希望するからであり、ミツバチの巣」をつくるのは蜂蜜を手にするためです。 信者もまいたものを収穫する事を希望し、自分の苦労全てが報われるのを望み、特に天の国に入る時、自分の故郷、天の都に戻る時、自分の苦労によってだけでなく、神からそれを戴くのを望んでいます。 天の都は天の港で、船が港に戻るように、自分の魂は神の国に戻ります。 ここで籠の中にいる小鳥はいつか自由の身になるという事の象徴です。 私の魂も体の籠の中に閉じ込められていますが、何時かその体を捨てて自由になるでしょう。 籠の鳥のシンボルは従順と自己放棄で、自分のありのままを受け止めることです。
いろいろのものが出てくる豊堯の角と花の咲いた枝は共に農夫の希望のシンボルで、信者も彼女と同様に栄光の冠を掴む為に、上へ、上へと進みます。 フランス語で希望が翼を与えるという言葉があります。 聖パウロのヘブライ人への手紙6章19,20節に「私達が持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 イエスは私達のために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じ様な大祭司となられたのです」と述べています。 キリストが行ったところに私達も入るべきだから、希望をもって、それを目指しているのです。 希望が翼を与えて天にまで昇り、栄光の冠をつかむためです。 聖パウロはこのシンボルをよく使って、私は オリンピックの選手と同じ様に、後ろのものを忘れて、前にある栄光の冠をとるために前進すると言っています。
CARITAS 愛徳 |
カトリック教会のカテキズム1822によれば、「愛は対神徳です。この愛徳によって私達は、すべてに超えて神を神ご自身のゆえに愛し、神への愛のゆえに隣人を自分自身と同じように愛します」と書いてあります。 1コリント13章1−4節には「たとえ人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。 愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない」ともあります。
愛徳は自分の内に、すべての他の徳を持っています。 これを確認するには、聖パウロの書簡、1コリント13章1−13節を読み返せばよいが、節制、慎重、正義、力、信仰、希望の徳を性格づける言葉が明白に引用されています。 愛徳つまり愛は限りない分野に私達を引き寄せます。 神ご自身のうちに・・・
神は愛。 愛によって私達は作られましたが、神を愛する為です。 神だからこそ、神ご自身の故に神を愛するのです。 聖書全体で神は人間との対話を始められ、愛のために人間が互いに愛し合うように勤めています。 だから神の愛で愛する為に、人間はどうしても自分の人間の考えを清めたり、捨てたりするべき時があります。 度々その愛は十字架を取る事で示されていますが、十字架の時にこそ悲劇的に神の愛が示されているのです。 父の為に、私達の為に、従順にキリストが死ぬのです。 その十字架は特に神の愛を啓示しています。 神が栄光を受け、イエスの内に全人類は神によって愛されるべきだと言う事を明らかにします。 「私は行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17章4節)とヨハネは述べています。 そこで人間は神と共に愛のうちに一致する為に、どうしても神の愛に反するものを退け、燐人愛に反するものを退けて、キリストのように従順に自分自身を捧げなければならないというのがヨハネ17章に於けるキリストの祈りです。 「友のために自分のいのちを捨てる事、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)とも言われています。
そこで聖書の中で、「知る」事は「愛する」ことです。 アブラハムが自分の妻を知りました。(創4章一節、4章25節)そこからイザクが生れ、命が与えられました。 知識、愛、生れる、この3つの事は唯一のことです。 神が人間を良く知っているから人間を愛し生かします。 同様に神にかたどって作られた人間が、神を知るように、神を愛するように、神のうちにいのちを見つけるように、命の泉である神を見つけるように神は要求します。 相応しい愛で神を知る、神を愛する、神のいのちに与かる事が大切です。 ここで、どうして偉大な神、考えられないほど偉大な神は、つまらない人間を愛しているのか? 罪人、弱く、神を無視する人間が神に相応しいのか? 人間がどんな風に神に答えればよいだろうか?と言う質問がいつも聖書の中から湧いてきます。 詩篇のなかには、「私は座っていても、立っていても、深い淵に隠れてもあなたは知っている。 あなたから離れる事はできない」と言う言葉があります。
キリスとのうちに啓示された神の愛がこの質問に正しい答えを与えます。 キリストは他の人よりも人間として神との対話の必要性を具体化しています。 そして人間の前でその愛を証します。 人間であるイエスの内で、人間は神を愛し、神の愛を完全に受けます。 「父がわたしを愛されたように、私もあなた方を愛してきた。 私の愛にとどまりなさい。 私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方もわたしの掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。 これらの事を話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである。 わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し会いなさい。 これが私の掟である」(ヨハネ15章9−12節)というキリストの言葉が三位一体の神の愛を示しています。 キリスト教的愛、愛徳について話す時、どうしても父なる神が、キリストと聖霊のうちに私達を愛する、その愛を話すにはいられません。 だから何時も祈りのなかで、主の名によって、聖霊の交わりの中で、全能の神というのです。
愛徳の具体的な形は3つあります。 (1)私に対する神の愛、 (2)神に対する私達の愛、(3)隣人に対する愛で、この3つの愛が互いに結ばれていて、唯一の、破壊できない一致を保っています。 隣人の愛は、キリストのうちに示された神の愛がなければ、つまり、私への神の愛、神への私達の愛がなければ、互いに愛する事は出来ません。 神が最初に私達を愛したから私達の示す愛は答えです。 真の愛が隣人の愛のうちに示されているし、神への愛のうちにも示されています。 これをよく分かる為に聖書をしらべましょう。
神の愛はヨハネが3章16節でニコデモに「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が独り1人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」とあり、また1手紙4章10節で「私達が神を愛したのではなく、神が 私達を愛して、私達の罪を償う生贄として、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります」とあります。 これは神の愛の姿です。 私達の神に対する愛は、マルコ12章29,30節に「イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とあります。
第3の隣人への愛はマルコ12章31節に「第二の掟はこれである。 隣人を自分のように愛しなさい」とあり、またヨハネ13章14節に「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」とあります。
次の愛には特徴があって、敵に対する愛です。 ルカ6章27節で「私の言葉を聞いているあなた方に言っておく。 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」といい、ヨハネ1手紙4章20節で「神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽りものです。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」と言っています。 またヨハネ13章35節で「互いに愛しあうならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とも言っています。
このように知識、愛、いのち、は互いに混じりあい、愛する人は人を生かし、愛する人は深く相手を知るようになります。 こんな素晴らしい愛に生きる為に聖霊が必要です。 聖霊だけが私達のうちに神の愛を示す心を形作り、隣人を愛する心を形作ります。 聖霊が神の知識、イエスへの知識を与えて、私達に天の父を私達の父とし、キリストに栄光を与える事を教えます。
聖霊は神が私達をどれ程愛しているかを教え、私達はキリストと共に永遠の愛のうちに結ばれていて、その愛から私達を離れさせるものはないと、ローマ人への手紙8章35−39節に述べられています。 この愛のお陰で私達は最後の出会い、神との最初の出会いを準備できます。 1コリント13章12節「わたしたちは今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがその時には、顔と顔とを合わせて見る事になる。 わたしは今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と書かれているようになります。 このように聖霊によって導かれてわたしたちは神の神秘に近寄り、同時に自分の神秘をも知るようになります。 「主よ、人間とは何ものなのでしょう。 あなたがこれに親しまれるとは。 人の子とは何ものなのでしょう。 あなたが思いやってくださるとは」(詩144章3節)と述べ、同時に人間の考えは「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。 神よ、いかにそれは数多いことか」(詩139章17節)と述べられています。
キリスト教的シンボルの中にある愛徳
色々な描き方があるので、大抵の表象を示そうとしていますが、大抵は女性によって愛徳が示され、その女性は炎の中に立っています。 彼女は手にキリストの名前を持ち、その名前は太陽のように光っています。 「イエス」とか「キ」とか「ロ」とかです。 これはアナグラムで単語のつづりを置き換えて別の語を作っているのです。 左手で自分の燃える心臓を天にまで差し上げています。 度々頭の上に巣があり、巣の中にはペリカンがおり、そのペリカンは自分のわき腹を刺し、自分の血と肉でひなを養っています。 時々、この愛徳の婦人のそばに子供たちがいます。 その時、彼女が子供たちを抱きしめて、暖めたり、授乳したりしている絵があります。 今、見ている絵は少し違って、彼女が自分の燃えている心臓を左手で持っていて、右手でキリストの心臓を持っています。 彼女の頭の上にいるのはペリカンで、足元には雛が3羽います。 聖体の神秘で、愛に生きる為に聖体を戴かなければならないということです。 キリストと一致して、キリストの心、キリストの体、キリストの霊となります。 燃える熱心なキリスト者とならなければならないとも読めます。
愛徳は火を特徴としていて、信者を熱心な者とし、隣人に対して生き生きとした、燃える業をさせます。 愛徳はキリストの教えに照らされて、その人が神に向かうように努力し、支えています。 キリストの光りを受ける人が、その教えやみ言葉によって、自然に主にむかって自分の心を開き、神への愛と隣人への愛の掟を実現する為に、上からの力を受けたいので、聖霊がその上に下るように自分の心を上に挙げています。 神の愛で燃えている信者が貧しい人、傷ついている人、子供を通して示された弱い人で表わされ、母の心をもって優しく慰め、養い、受け入れます。 愛徳は聖体によって、キリストの肉と血によって力を受けます。 だからどうしても、愛する人がキリストの受難、刺されたわき腹を見て、ここから命の泉が流れ出る事を知らなければなりません。 最後に燃えている炎の中にいる愛徳はキリストの栄光で輝き、キリストの栄光を自分の衣とします。 これこそ愛する人への最高の報いです。
信仰 希望 愛徳
結論
キリストの弟子として生きたい人は、どうしても自分の心の明晰さ、自分の智惠の憧れ、自分の感情を統御する必要があります。 自分の振る舞いが全てキリスト教徒として福音化され、神が与えるすべての賜物を上手に使うことです。 判断の柔軟さ、感情の明快さ、選択の率直さなどすべての徳は、永遠の命の門を大きく開き、神との交わりを豊かに与えます。 この徳は人間の道を歩むのに役に立つ案内者です。
私達は永遠に向かって歩み、目覚めて、来られるキリストを迎える為に、信仰と愛と希望をもってキリストが与えようとしている永遠の幸せを待ち望んでいます。 私達が完全な人間キリストによって新たにされた完全な人間となる為に、すべての徳が聖霊によって与えられていることを知っています。 「このキリストを私達は述べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、智惠を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(コロサイ1章28節)
もし私達が自分の内にこれらの諸徳の現存を感じるなら、もし私達が自分や自分の周囲で多かれ少なかれ、徳の実行による変容の働きを見るなら、永遠の命に導く正しい道を歩んでいると信じる事が出来ます。
最後にフィリピ人への手紙4章8節を見ましょう。
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と。
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