―――――――「ありがとうの言葉と、そして」



どうぞと言って手渡されたものは、エクソシスト総本部を目指し通りすぎた先々の街で、道脇の露天商のいくつかが取り扱っていたチョコレート菓子の丸い、小さな包みだった。リボン状に包まれ、甘い匂いを漂わせるそれの突然の出現に驚き、一体何事かとアレンは瞳を瞬かせる。いつも傍に寄り添うティムキャンピーも、香りに誘われてか、アレンと、そしてその目前に佇むリナリーの周りをじゃれるようにして急に元気良く飛びまわりはじめた。
それでもまだ、アレンには何が起こったのかわからなかった。
そんな彼の様子がおかしかったのか、少女はくすくすと笑いだして、
「今回の任務先でね、売ってたの。おいしそうだったから、みんなにおみやげ」
「え、…あっ、そうなんですか!」
ようやく得心がいったとばかりに大きく頷いて、奇妙な居心地の悪さをその場しのぎの苦笑いでアレンは横へと追いやった。にこやかに笑う少女を前に、瞬間的に駆け巡っていった気持ちをどうか気づかれてませんようにと切に願いながら。それから手の内でころりと転がる、件のチョコレート菓子に目を落とした。
確かキャラメルをチョコレートでコーティングして、それから白い粉砂糖をふった、まるで雪の固まりのような食べ物だったように覚えている。遠目に眺め見て、いつもそのまま素通りしてしまっていたからまさか自分の手に渡るようなことがあるとは思いもしなかった。
いいや、そもそも甘いお菓子など今まで自分には縁がなかったのだ。あげようと言われたことは幼い頃に幾度かあったけれど、それは見知らぬ誰かであったり気まぐれな同情や押し付けの偽善であったりと、混じりけのない気持ちでそれらを受け取ることがどうしてもできず、結局そんな自分に業を煮やして去ってゆく姿を見ることのほうが断然に多かった。唯一共に在った大人は優しいけれど不器用な人間でもあって、そんな目に見える幸福のカタチを、思いついても即決で行動に移すことはない、生来の思慮深さからただ静かに、言葉少なに傍にいてくれるひとであった。そして自分もまたそれで良かった。与えられる好意はどれほど時が経っても、いつまでも不慣れで、分不相応とうまく礼を返すことのできぬ自分の不甲斐無さにやがて見限られてしまうのではないかという畏れが、歓びと共にいつでも思考の片端にはあったのだから。だから。ただ一緒に居られたらそれでいいと。不安を掻き消すように、手を差し伸べる高いシルエットに黙ってその奇怪ではない方の手を懸命に伸ばし、繋いで、共に生きてきた。
それ故に甘いものは自分の今在る生活を脅かし、壊すのではないかという変質した捉え方をその当時していたように思う。
今となればそれも笑い話だ。
子供は甘いものが好きという世の、大方の定説を、いっそ依怙地なまでに嫌い続けようとしていた子供だったのだから。

―――それでも、たった一度だけ。

「……アレンくん?」
どうしたの、と柔らかく問う声にふと我に返る。
はっとなってみれば、気遣わしげな眼差しと即座に遭遇することとなった。
間近にある瞳に慌ててアレンは胸の内を見透かされまいと、思い馳せる過去を覆い隠すようにして手のひらのそれを口に含んだ。…けして訊かれたくないわけではない。そういった過去は今を形作る自分の一つでもあるのだし、彼を、マナの事を隠したいと思ったことなど一度足りとてない。彼の存在は自分にとって大いなる誇りだ。
大切で大切で、大切すぎる日々の象徴だった。たとえ、その最後の記憶に償いきれぬ過ちを犯してしまったのだとしても。
忘れたいと願ったことはこれまで一度だってありはしなかった。
けれどそんな到底明るいとは言えぬ過去を露呈して、おかえりと云って微笑んでくれた少女の顔を曇らすような事態だけはなんとしても避けたかった。心優しき少女は初めて会ったときでさえも、いかにも怪しげな自分に対して至極親切であったし、あたたかく、誰かが傷つけば瞳を伏せてその痛みを想う女性であることを今ではもう十二分に知っているのだ。
それは目には見えぬ心の傷であれば、より一層深く、余計に悲しんでしまう性質を持ち合わせているようでもあった。
そんな少女にどうして微笑み以外の表情をさせたいと思うだろうか。
「どう?」
「あ、ハイ。……思ってたより、ずっと甘いんだなあと」
言うと不思議そうに黒曜の瞳が軽く瞬いた。
「……もしかして甘いの苦手だった?」
「え?」
「なんだか表情が固まってる」
「そ、そんなことは」
ありませんよ。――と、否定すればするほど疑惑の色が深まる双眸を前に、再び慌てふためきながらアレンはそれでも必死に首を横に振った。けれど内心ではもう、途方に暮れるしかなかった。聡い彼女を出し抜くにはまだ自分は神田のようなポーカーフェイスを会得しきれていないことは重々承知しているし、それは勿論、小さく首を傾げるリナリーも。
きっと、わかっていて。
「ほんと?」
「は、はい」
「………………」
僅かな身長さがこの際、恨めしい。
何かを言いたげな。
それでも何も言わぬ瞳にじっと見据えられ、見つめられてしまえば。
最終的にはアレンが折れるしか、虚偽を通そうとするちいさな罪から逃れる術はなくなってしまう。そしてまた何度目かの己の負けを痛感しながら。
「……嫌い、ではないんです。それだけは本当に信じて欲しいんですけど……」
「うん」
静謐に頷く少女の肩先で、残る全てを背中へと流した漆黒の髪が短く揺れる。辛抱強く、それからしばらくアレンの逡巡が落とした沈黙をリナリーもまた黙って受け止めて。
やがて静寂の中でアレンが躊躇いがちにその口を開いた。
「ただ、お菓子とか…その、これまであんまり食べたことがなくて、」
「うん」
「でも一度だけ、……一度だけ、僕の育ての親が買ってくれたことがあったんです」
それはたった一度だけの、甘く、苦い思い出となってしまったけれど。
偶然か否か、あの時も手渡されたのは今回と同じくチョコレート菓子だった。ジリ貧生活の続く自分たちにとっては高価と称して良いそれを。ほんの一瞬、道ゆく同じ年頃の子供が手に、笑って口に運んでいるのを羨しげに見てしまったが為に。
彼は自らの食費を割いてアレンにそれを買い与えてくれた。
あの時の感動を何と言えばよいだろう。
あの、胸の詰まるような幸福感を。
「……すごく、嬉しかったんです。本当に、言葉もないくらい。すごく嬉しくて、夢みたいで、夢のようで、……夢かもしれないと思って、急に、僕は怖くなったんです。嬉しいのと同じくらいに怖くなって、彼がそうしてくれるのはこれが僕と過ごす最後の日だからじゃないのかって、そんなふうに思ってしまって…」
静かに耳を傾けるリナリーに、
「だから僕は」
アレンは、それから静かに微笑んだ。
たった一度だけの思い出を脳裏に。
「僕は、彼に嘘をつきました」
引き換えたそれを、今更ながらに後悔しながら。




「――…嘘を、ついたんです」
囁くように呟いて。
そこでアレンは一旦言葉を止めた。抑えきれず、零れ落ちてゆく吐息をひどく情けなく思いながら、それでもアレンの話を少しも笑うことなく、真摯に受け止めてくれるリナリーの瞳に素直に感謝した。
そんな眼差しにできる限り正直であろうと、アレンは浮かべた微笑を今度は緩やかな苦笑いへと変える。場を硬質させぬよう心を尽くして、明るい笑みを浮かべる。――今となっては。……今となっては、あの頃、幼い自分の心を追い詰めた不安と重圧は、ただ彼が大切だったという事実の前に、何の効力も成さないものと変わり果てている。
残るのは残滓と呼べる後悔の欠片ばかりだ。
思い起こし、苦笑いがほんの少し揺らぎそうになる。
「……どんな嘘を?」
「甘いものは苦手だと。子供の他愛ない嘘です。だけど僕は彼の好意を傷つけるような嘘を、そうやって咄嗟についてしまったんです」
ただ、彼と離れたくない一心で。
捻じ曲げた。
本当はそうではない。感謝し、大切にすればよかった心を。
「その時の彼の驚いた顔は今でも忘れられません」
「……………」
「だからこういう、お菓子なんかを食べると、ついその時のことを思い出してしまって……」
馬鹿ですよね、と、すべての経緯を話し終えて苦笑する。笑い話なだけではない。今更な話だ。これは。こんなものは。独りよがりで、もう何も取り返すことのできぬ―――……
と、不意に。最後まで黙って控えめに聞きとめていた少女の頭が一度だけ考え込むように低くなり、ややあって。
「あのね。アレンくん」
「はい?」
無防備にその顔を上げられた。
やはり間近で捉え、静穏な表情に思わず虚をつかれる。
まるで定まった全てを覆すかのように、迷いのない光がアレンの目前で閃いた。
そして。
「アレンくんは嘘が下手だって知ってた?」
「…………は?」
「だから、きっと知ってたと思う」
「リナリー、あの、一体何を…?」
「アレンくんが甘いものが苦手なんじゃなくて、それよりもずっとずっと、その彼のことが好きだったってこと。きっと、その育ての親のひともわかってたと思うの」
だって私にも見抜けた嘘なんだもの。
言って、微笑むリナリーの頭上を金色の輝きがくるくると流れ飛ぶ。そうして楽しげに少女の近くを飛び交った後、声をなくしたアレンの傍へと今度は擦り寄うように飛んできた。
羽根を模したツバサがアレンの頬を柔らかく撫で、まるで甘えるように肩先に止まる。
ティムキャンピー、と、茫然とその名を呟き、
「…いえ…で、でも」
突然の、今まで考えもしなかったことを突きつけられアレンは大いに狼狽えた。けれどそんな動揺するアレンの前でリナリーはただそっと笑顔で。
澱みなく、微笑っていて。
それこそ嘘のように。
「…………そう……でしょうか」
本当に、そうならばよいと、言いながらすでにそう思いはじめている自身の都合の良さに自己嫌悪が引き寄せられて、また軽く途方に暮れる。
だが、
「そうなの。だって、アレンくん。ほんとは甘いもの、大好きでしょ?」
つい先刻には甘いものが苦手なのかと問いかけたその口で。
少女はそう言い、指摘するのだ。まだ出会ってそれほどの刻の経たぬ、「彼」よりも短い時間の上をゆく身で。ただ微笑んでいられる真実を伝える。
「好き、でしょ?」
「………………………ハイ」
返答にはやや時間がかかった。様々なと云うべきか複雑なと云うべきか。
葛藤が若干頬を引き攣らせもしたけれど、だが正直にアレンは首を縦に振った。
頷く。
深く深く、心から。隠すことのない真実を咽喉の、心の、奥の方から引き出して。
にこりと今度はとりとめもなく明るく少女が笑った。
静が動に変わる。
「はい、じゃあ、これ」
「え? あっあの、リナリー? 僕はさっきもう貰い…」
「おみやげ。今度はちゃんと美味しく食べて」
唐突にそれは。ぽんと手のひらに。
重い感慨のなかで消えていったチョコレート菓子が、それはあっけないほど簡単に現れた瞬間だった。
薄紅色の包みをリボンにし、見目良く、可愛らしく装飾された二度目のチョコレート。
甘い香りがアレンの鼻腔を再度くすぐった。リナリーの笑顔も視界に映る。
……何が起こったのかわからなかった。

(アレン)

ティムキャンピーが匂いに反応してアレンの肩から飛び立つ。

(……アレン。これを)

そうして無邪気な動きで包みを一、二度、つついて。
「あっ…こら、ティムキャンピー!」

(これをお前に……)

――――眼裏に、大きな影を引き連れた彼が小さな自分へと不器用に差し出した「それ」が過ぎる。
甘い香りは変わってはいない。記憶の中で、それは何も。アレンの中で何一つ変わらぬ、――マナへの愛情と同じように。
それは変わらずそこにあった。
畏れずともアレンのすぐ傍らに。
「食べても……、いいですか?」
「どうぞ。だってアレンくんにあげたものだもの」
手渡されたそれをもう一度だけ凝視し、おそるおそるといった態でアレンはリナリーの見守るなか、静かにその小さなチョコレートを口に運んだ。舌先を転がると表面の粉砂糖がすぐさま溶けて脳から甘いという信号が意識に下る。
だがそんなものよりもずっと確かな。
認識するまでもない、意識の彼方で。
「美味しい?」
「…ハイ。美味しいです。とても甘くて、柔らかくて、すごく…………」
「うん」
「本当にすごく……すごく嬉しい、です」
訥々と幼子のように呟くと、そう、良かった、と穏やかに返る言葉がある。アレンの前で倖せそうに微笑むひとがいる。
それはアレンが望み望んだ、光ある光景。
それから。
「―――ありがとう、リナリー」
謝辞を述べたい、瞬間だった。




目当てものがなくなり、ふよと名残惜しげに二人の周りを飛ぶ金色のゴーレムに、少女が、「ティムキャンピーはまた今度ね」とアレンよりも先にやんわりと断りを入れた。その光景がおかしくて小さく笑うと少女もまた同じように笑った。やがて薄紅の桜が嬉しそうな少女の頬に浮かんできたのを見て、何故だか急に、おかしさとは別のものが入り混じってきて、アレンはふと目のやり場に困ってしまった。
「アレンくん?」
「いえ、あの、な…なんでもありません!」
ふうん? と訝しげに呟かれるも、けれど少女がその先をアレンに追求してくることはなかった。心からほっと安堵する。
何故なら。きっと、いま、それを訊かれても返答に困るだけだとわかるから。
理由もなく、まともに少女を直視することが躊躇われてしまったアレンは、そのまま傍を飛ぶティムキャンピーへとその視線をずらし、




今はただ。
耳に残るその言葉。
響く声をティムキャンピーを追いかける視線のなかで思い出す。


忘れることなく鼓膜に張りつき、蘇る。
それは福音の鐘。


何よりも大切な、幸福の象徴。
そしてそれは変わらずいつでもここに。



「………………ありがとう、……」



低く囁いた名は誰に聞かれるともなしに、やがてひそやかに空へと溶けた。
返し損ねた、
遅い言葉をともに引き連れ、そっと響かせながら。
いつまでも。
いつまでも。





(アレン、これをお前に……――――)


fin.


(04/10/31.ハロウィン)
初のアレリナ創作でした。そして前に使ったことのある台詞回しをまた使ってしまって、知ってる方はどうぞ気づかないフリで、といったそんなお話。タイトルがうまく浮かばなかったのでとりあえず暫定コレで。
すごく自己満足創作です。というかもう、アレリナ! アレン! アレン! アレリナ! と、可哀相なぐらいにアレンにメロってますわたし。リナリーと一緒だと尚良い。アレンのカッコかわいい立ち振る舞いにWJを読むたびに、心臓直に叩かれっぱなし。
でも基本はDグレ全体ラブで。色んなキャラを色んな角度で創作していってみたいなと思います。これほどまでの衝撃を与えてくれた星野センセに今はもう大感謝。(こんな創作ではあの素晴らしさは表現しきれない)
大好き、Dグレ…!(デビュー作の読みきりも早く読みたい/アレンのもとになった女の子が…!)


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