―――――――「 やさしい嘘に眠れ 」 自室へと戻る途中で、ふいに足が、掠めた思考に誘われるまま今来た道をとってかえすよう回れ右の信号を送りつけてきた。一瞬、どうしようかと迷うも更にその一瞬後にすでに身は翻っていて。 思うよりも先に動いてしまった自身にリナリーは軽い困惑を覚える。 (どうして) 思うも、すぐには明確な答えを導き出すことができない。 ただなんとなく。 ……なんとなくといった、不明瞭な感情で動いてしまったようにどうも思える。 コツコツと石畳の床を鳴らしながら歩いていく。就寝前の曖昧な時間帯ではあったものの、周囲には珍しく自分以外の者を見つけることができない。いつもなら仕事に追われた科学班の誰かが、苦悶の表情でこのあたりを徘徊している姿を見かけるのだが。 漠然とした意識に促されるまま階下に降り立ち、石造りの窓辺から差し込んでくる仄かな光を横目に。リナリーは黙ってその場を速やかに通り過ぎる。けれどぽっかりと高く楕円形に切り取られた窓からは暗色の雲が空に溶けるように沈みこんでいて、深い空が、強く意識に刷り込まれた。 窓の外に広がる世界。今夜は風はなく、停滞する雲の翳りに、ただ隠れるようにして月が一つぽつんと浮かぶばかりである。 それはまるで半月のように。 闇に身を潜めているようにも見える月に、リナリーはほんの一瞬、今来たばかりの背後を振り返り、瞳を伏せる。闇は、空に架かるばかりではない。 知っているのだ。自分は。 相反した地上の闇の禍々しさを何よりもこの身を以って。澱んだ過去を思い出し、つい心が沈む。それを払拭させるかのように、やがて辿り着いた目当ての場所で、リナリーは扉を叩く前にいつもの見慣れた落書きに目を落とし、小さく笑った。 あたたかい、やさしい思い出が心に落ちた闇を払う。 『――ほら、こうすればすぐわかるだろう?』 そう言って描き込まれたものは他の者が見たら、暗号のような記号のような。 何が描かれているのかすらわからぬ正体不明な落書きでしかない。リーバー班長が以前詳細を問ってきたことがあったけれど、なんとなく自分と、兄だけの秘密にしておきたくて笑って曖昧に誤魔化してしまった。 けれどこれはそういうものなのだ。 他の人が見ても、知っても、意味を持つことなどない。 ただ自分と兄だけの。 二人だけの記憶の中に、それはあればいいものだった。 今となれば少し背を丸めなければならぬ位置にあるそれを懐かしく思いながら、その、周囲には正体不明と明言されている落書きをそっと指の先でリナリーは撫でた。 無機質な扉は夜にふさわしい冷たさで、静かに、そんなリナリーの行為を受け止める。名残惜しげに指を離したあと、リナリーは一呼吸入れて目前の扉を叩いた。 「――兄さん?」 潜めた声でそう問いかけると珍しくすぐに返答があった。今日はどうも珍しいこと続きのようだ。いつもは何か、得体の知れぬ研究に没頭していて訪問者の声に気付くまでわりと時間がかかるというのに。それは身内のリナリーですら例外ではない。それなのに今日はいくらも待たされることなく即座に反応が返ってきた。明日はもしかして雨だろうか。雲に覆われた夜空を思い出して、そんな他愛もないことを思う。 「リナリー? 開いてるよ」 入室を促す言葉に、躊躇いながら入るねと声をかけ、扉に手をやる。溢れる光が網膜を射した。やがて徐々に光に慣れた視界にまず入ったのは何か薬草のようなものが無造作に押し込まれ、詰め込まれた古びたフラスコ瓶であった。零れぬよう蓋はされてはいるのだけれど乱雑に散らかった棚の上にやはりこれまた無造作に置かれているものだから、いつか地震のようなものが起こったら揺れ落ちて割れてしまうのではないかと、いつもリナリーは危機感を募らせ心配してしまう。 気付いた時にはもうあったそれは、随分と長い間その所定の位置に放置されたままだ。埃を被った蓋は当然の如く開けられた形跡もない。リナリーが知る限りではもうずっとそれはそこに置かれたままのものだった。あれは何? と好奇心に勝てずある日、訊いたことがある。けれど自分は知らなくて良いものだと何かを企むような顔で平然と微笑まれた。そんな曰くありげな瓶をこうして兄の部屋を訪れる、その都度、リナリーは目にしながら、 「ごめんね。遅くに」 昼夜問わず忙しい兄への謝罪をまず口にした。丁度コーヒーを飲んでいたらしく、入ると室内にはコーヒー独特の深い香りが嗅覚へと染み込むよう流れてき、兄がカップを片手に、部屋に足を踏み入れたばかりのリナリーを振り返っているところだった。微笑まれ、リナリーもそっと相好を崩す。 「休憩してたところだから別に気にすることはないよ。それよりも、迷わなかったかい?」 「もう、またそんな昔の話を…」 「ほんの数年前のことだよ」 言いながら口の端で笑い、 「おいで、リナリー。ココアでもいれようか?」 「……そうやって子ども扱い。すぐ寝るからいいの。ここにはちょっと訊きたいことがあって寄っただけなんだから」 「リナリー……」 あからさまにがっかりした兄に、今度はリナリーがしてやったりと小さく笑う。そして、 「兄さん」 「ん?」 「兄さんは、私が嘘をついたらやっぱり悲しい?」 深夜の訪問をするべく思考を掠めたその問いかけを唐突にそう切り出した。 「……なんだい、藪から棒に」 「うん、ちょっとした市場調査」 案の定、面食らったようにコムイの目が丸くなり、市場調査という言葉にも怪訝そうにする。だが驚く表情はすぐさま消えた。 「リナリーが嘘をねえ」 たちどころにいつもの飄々とした表情に戻り、ともすれば真剣には何も考えていなさそうな呑気な態度で手にするコーヒーを一口啜る。リナリーの回答を望む眼差しを前に、更にはコキリと肩と首の骨を軽快に鳴らしながら。 「別に悲しくはないよ」 極めて平静に。 実にあっさりとコムイは呟きを落とした。 「どうして?」 「うん? 何がだい、リナリー?」 「だって……てっきり、泣くか拗ねるかすると思ってたから」 「リ、リナリー、それは」 身内の容赦ない言にコムイはそれこそショックを受けたように、愛する妹の名を茫然と口にする。兄の威厳が何処かで崩れ落ちる音がする。そして衝撃覚めやらぬまま、頬を引き攣らせて「まあ、……ねえ」と苦々しくも感慨深そうになんとか立ち直ったコムイは、 「誰かが悲しむような嘘をリナリーがつくとは思えないからね」 一息つき。 先程は述べなかった理由を軽くそう言って付け足した。 コーヒーを机に戻し、扉の前に佇むリナリーを優しく見つめる。そんなコムイの眼差しをリナリーもまた静かに見返した。脳裏では在りし日の思い出と、近い過去。嘘をついたと懺悔して――本人にはその自覚はなかったけれど――自嘲気味に微笑んでいた少年。それらが乱雑に過ぎ去ってゆく。 「知ってるかな、リナリー。人の嘘には単純に二種類のものがあるんだよ」 「二種類?」 「そう。簡単なことだよ。やさしいか、否か。嘘なんてものはただそれだけの、それだけでしかない人の放つ言葉だからね。その『人』を知っていればそれがどちらかなんてのはすぐわかるものだよ」 やさしい嘘か、そうでないか。 紡ぎだした嘘を罪悪と、頑なに胸に悔恨を呟き落としていた少年が兄の言葉と重なり、リナリーの心を震わせた。その姿は痛々しく、だからこそ引き摺られ、尾を引いた気持ちがリナリーの思考を迷わせ、今この場所にまで身を翻らせた。 それはどこかでこんな証明を求めていたからではないだろうか。 こんなふうに。 「僕はリナリーを信じてるからね」 「兄さん…」 信じているよという言葉と、そんな当たり前の確信を。 リナリーがただそう思っているだけではなく、自分の、大切なひとの口から聞きたかったのかもしれない。そしてそれを。いつか彼にも……。 「で、これは何の市場調査なんだい。リナリー」 「あ、うん。…えっと」 「リナリー?」 促すも、どこか魂を抜かれたようにぼんやりと瞳を彷徨わせるリナリーに訝しげにコムイは声をかけた。そもそも深夜の訪問の目的が定かではない上に、そんな常にない不可解な様子を目前で披露されては心配するなという方が難しい。熱でもあるのかと極めて平凡な懸念が思考を過ぎる。だがそれを口にするより先に――、 「………みんなが、」 「うん?」 相槌を打つコムイの前でひどく柔らかな微笑が浮かべられる。 それはいっそ。 「みんなが、倖せになるための…かな」 そう言う自らも倖せだと告げんばかりに。 そして闇に架かる月が雲を離れ、淡い灯りで切り立った崖上の古城を照らし出す頃。 誰に知られることもなく一つの嘘がやさしく闇に消えた。 限りない幸福に包まれながら。 まるで、眠るように。 fin. |
(04/11/05) リー兄妹はまだわりと手さぐり状態。口調がどうも……キャラを崩してそうでもっと本編の二人の会話とかを読んでみたい今日この頃。(単なる趣味)それでリナリーとほのかに仲良くしてるアレンをみて、コムイ兄さん、夜中ひそかに、リナリーにつく虫を撃退する秘密の科学道具を製作してるとよい。そしてリナリーに見つかり怒られて涙流しながらしょげるとよい。そこへ何も知らぬアレンが慰めにきて千載一遇とばかりに襲い掛かって、途端にリナリーの黒い靴攻撃を受けて強制反省させられてるとよい。すごいしあわせそう。(ちょっと待って) この話自体は先に書いた「ありがとう」の話のサイドストーリーなんですけど、コムイの部屋の扉のラクガキはまたどこかで消化できたらいいなという伏線に伏線を重ねた、そんな話でした。わりとすぐわかると思いますが、適当に読み流しておいて頂けると嬉しいです。オチないうえにわかりづらくてすみません。スランプのリハビリも兼ねて打ってみましたが、読んで頂き、ありがとうございました!(後記で全て台無しにしたような気がします) |