寝起きの中尉には気をつけたほうがいいという、不可思議で謎多き噂が流れ始めたのは乾いた季節に蒼い空が人々の目によく映りはじめた頃だった。 蒼天に似合いの白い雲がその時々の色合いで、優美に空を飾り、少しばかり高くなった領域をさらに大きく広げながら道行く人々の気持ちを伸びやかなものと変えてゆく。 季節は初夏。 空高く上がる笑い声が耳に心地よい、そんな午後に噂は誰彼かの耳と咽喉を通り、――所用で東方司令部へと赴いていた鋼の少年の耳にとそうして辿り着いたのであった。 【 眠りの森の佳人 】 「………あの中尉が?」 おもむろに不信の声を上げ、にわかには信じられぬといった表情をみせ、丁度その時、エドワードは目前に立ち並ぶ馴染みの面々をどうにも疑惑に満ちた眼差しでもって見返していた。 エドワード・エルリック。 彼の有名な「鋼」の称号を持つ国家錬金術師、――それがエドワードを言い表す場合に使用される二つ名であり、同時にそれは軍部内における彼の肩書きでもあった。 若くして国家錬金術師という国家直属の地位へとのぼりつめたエドワードが、その幼い面差しに反して軍部内では少佐にも匹敵するほどの力を行使することができるのは、広く誰もが知るところである。たとえ十五のまだ子供という年齢であっても、国家錬金術師――その名さえ冠することができたならば、それは誰もが知る軍における規定であり、常識であるのだ。 そうして賞賛と畏怖と同情、国家錬金術師であることにおいて人々が抱く様々な感情、複雑な重圧を受け止めながら、それを微塵も感じさせぬ明るい表情で、エドワードはいつものように居並ぶ軍の大人たちを実に胡散臭そうに眺めたのち、 「誰かが適当なこと言ってんじゃねえの? それ」 あからさまに呆れの一言を、そう呟き洩らした。いい大人が何言ってんだという態度がありありと窺える、通常ならば反感を買うだけのようなその物言いも、みな、エドワードの性格をよく知っているだけあって、 「でもあの中尉相手に、ですか…?」 フュリー軍曹はまったく気にすることなく、それとは別のことに困惑を覚えながらぽつりと呟いた。その横で、「だとしたら大したタマだな」と、どこか面白がっている節のみえるハボック少尉。いつものようにのんべんだらりと煙草の煙を宙にくゆらせている。 そして、 「確かにエドワード君の言うとおりただの噂ではあるんですが……一応犠牲者もいるらしいですから」 生真面目に最後を締めくくったのは諜報部所属のファルマン准将であった。ちなみにブレダ准尉は本日非番の日らしく、姿が見えない。それから渦中の人物であるホークアイ中尉と彼らの上司、マスタング大佐の姿もないのだが、おそらく大佐はどこぞでサボっているのだろうことは火を見るよりも明らかで、今更疑うべくもない。 目を離すとすぐにサボるという彼らの上司は、本日もその手厳しい言に違わぬ見事な証明を果たしているようだった。 大佐は? と最初に挨拶がてら聞いたエドワードも当初からそのつもりであったのだから周囲の認知度の高さが如何ほどのものかが窺い知れる。今日は一体どのへんに隠れてサボっているのだろうか。 そんな疑問がちらりとエドワードの脳裏をよぎったが、 「噂の中の犠牲者、か…それもなんか信憑性が薄いよな」 「まあ確かにそうですね。犠牲者の名乗りがあったわけではないですから…エドワード君の言葉も一理あります」 「というか噂ってのは結局そんなもんだしな、気になるってんなら中尉に直に訊いてみるってのもいいだろうけど」 「やだよ、なんでわざわざ」 ま、そりゃそうだ。――と肩を竦めてあっけらかんとハボックは言うと、続けて、 「第一、そんなんで中尉の不況は買いたくねえよなあ」 同感、とあちこちで声があがる。本来の上司より一目も二目も置かれている部下というのも、実にまたおかしな話ではあるが、それだけ彼の女性が有能で、規律正しく―――そして。 「でも怒ってる中尉が一番らしくて綺麗だって、専らの噂だけどな」 「…………大人ってわけわかんねえ」 「そう言うなって。良くも悪くも中尉は目立つってだけの話だよ」 またしても同感、と声が返る。けして言葉にはしないがエドワードもそれに異を唱えるつもりはない。 良くも悪くも、確かに中尉は目立つのだ。 もっと正しく言うならば、目立つ「容姿」をしている、のだ。 怒っているのが一番綺麗だという噂はおそらく中尉に好意を寄せる者たちの出した下馬評だろう。それも密やかに想い、けして自らの心を打ち明けることのない陰ながらの者たちの。 いついかなる時も冷静で、無表情が常である彼女が次によくする顔といったら大方決まっているし、それがどんな時に最も多く浮かべられるのか、それもまた言わずもがな、周知の事実であり。 (だから、まあ、要は、戦う前から負けを認めてるって話…か) 不甲斐ない、とは思わない。 なにせエドワードもまたその事実を知っているのだから。 「……で、その目立つ中尉は今どこにいんの? 大佐じゃアテにできないから中尉に渡しときたいんだけど、この書類」 「おー、そうか。ああ、ちなみにお前は中尉のどんな時が一番綺麗だと思うか、ちょっと教えてくれ。今、集計しててなー……あ、参考までに、俺は定番と言われようともやっぱり笑ったところだな」 「何の話だよッッ!? ていうか聞いてないし、聞けよ、人の話!」 真顔でそう胸を張って答えるハボックに声を荒げて、まず人として当然の辺りから鋭くツッコミを入れたエドワードであったのだが。 「私は、やはり銃を構えたときですね。凛としていてとても綺麗だと思いますよ」 「僕はお疲れ様と言って帰るときでしょうか」 ファルマンとフュリーの立て続けの言葉を聞き、 「………………大人って」 脱力気味にもう一度エドワードはそれを繰り返した。 ◇◇◇ 昨日夜遅くまで……というより徹夜をしたらしいホークアイ中尉は、仮眠もとらず結局いつも通り働いているのだと告げられ、その真面目すぎる職務姿勢に自らがそうしたわけでもないのにややげっそりとしながら、エドワードは一先ず教えられた通りに第二資料室へとその足を踏み入れた。 重圧的な棚がずらりと立ち並んでいて、視界がひどく暗く思える。 けれど、その一角に明るい陽射しが斜めに差し込んでいる場所を見つけ、 「中―――……」 同時に探していた人物の姿の物珍しい光景を目にし、エドワードは途中で声を咽喉の奥へと引っ込めてしまった。 作業机に座り、何かを記している風に見えたその後ろ姿が微かに上下している。 うわ、と声にならぬ声をエドワードは洩らした。 ゆるやかな吐息をつきながら、ホークアイ中尉が寝ている。安らかな寝顔を無防備にもさらして。 細い金髪が空気に溶け込むようにして輝き、エドワードは自身の金髪と思わず見比べるような視線を送ってしまった。 同系色とはいえ、自分のものと受ける印象がまるで違う。 やがてそのぶしつけな視線を敏感に察知したのか、ふいに、閉じていた目蓋が鳶色の瞳をのぞかせながらゆっくりと持ち上がった。 「だれ…?」 寝起きで声の感じがいつもと違い、わけもなく焦る。 「――――あ。え、えっと、俺、だけど……」 「エドワード君…? ……ん、ごめんなさい、少し、疲れていて…」 「知ってる、さっき皆から聞いたし。それより起こしてごめん。もう少しあとで来ればよかったね」 「謝ることなんてないわ。何か用があったんでしょう? それ?」 手にする書類に素早く目を留められ、 「ああ、うん……大佐に渡しといてほしいんだけど」 「そう。わかったわ」 静かに微笑むホークアイ中尉に書類を渡しながら、エドワードは先ほどハボックたちとした噂話を思い出し、曖昧に頷いた。 「? どうか、したかしら?」 「あー……いや、噂ってやっぱアテにならないなって」 「噂? 誰の………私?」 不思議そうに瞳を瞬かれ、多少言ってもよいものか迷ったが、 「うん、…噂でさ、中尉が寝起きに銃を乱射するって……その、犠牲者もいるから、だから気をつけたほうがいいって聞いたんだけど」 現にそうした事態に直面したが、やはり誰かが面白がって流した噂なのだろうと状況からエドワードはそう理解した。 さすが軍人というべきか、元々目覚めの良さが備わっているのか。 噂で聞いたようなことは一切なく、覚醒した途端に仕事へと思考を切り替える迅速さに舌を巻くばかりだった。さすが、あの放蕩上司の副官を務めているだけある。 「…………乱射」 「いくら何でもそんなこと中尉がするわけ……」 こめかみに指をやって考え込んでいたホークアイの表情が次第に苦々しいものへと変わってゆく。 まるで、思い当たることがあるように。バツの悪そうな鳶色の瞳が折り返しでエドワードへと送り返されてくる。 「中尉、あの…?」 「……………心当たりが、ないことは…ないわ。あと、犠牲者――というか噂の出所もだいたい見当がつくから……」 「え、だ、誰?」 思わず素直に問ってしまったエドワードの目前で溜め息が一つ、零される。いつもの、見慣れた風景。そして。 「――――大佐よ、きっと」 飛び出してきたのも、いつもの聞き慣れたものであった。 「……少し冗談がすぎたのと、あと寝起きだったこともあって……思わずちょっと」 あながち否定できぬ噂だと言外に告げながら、思わずちょっと、正確には何をしたのか聞きたくなったエドワードであったが、気恥ずかしそうにしているホークアイ中尉に問いかけることはやはりできなかった。真相は当人らだけが知る、闇の中ということだ。 けれど。 「本当に、もっと気をつけないといけないわね、私も」 「……うん、俺もそう思う」 ただ一つ、これだけはわかる。 寝起きの中尉には気をつけたほうがいいと云う言の葉の裏の、裏。 その、本当のところは――――……、 「どうしたの、エドワード君? 顔が赤いわ、もしかして熱でも…」 「な、なんでもない! なんでもない!!」 なんでもないとは程遠い動揺を露わにして、びくんっと肩を張りながら、エドワードは激しく後悔した。そうして呆気にとられ、珍しくきょとんとする中尉の眼差しを見て、更に後悔。 中途半端に後さずり、距離を置く。じわじわと内側から伝うようにして熱があがってくる。隠すことができない。 「そ――それじゃ、中尉。俺、このへんで…!」 「え? あ、ちょっ……エドワード君?!」 別れの言葉もおざなりに、脱兎の如く勢いでエドワードは回れ右をして駆け出してゆく。その背に追い縋るような呼び声を微かに惜しみながらも、胸中をよぎるのは。 ――――お前は中尉のどんな時が一番綺麗だと思う? 答える義理はないと思っていた、その質問。――否、正しくは明確な答えを特にこれと断定し、思い当たらなかった、それ。 だがしかし答えはふいに回答を得てしまった。 「……ああ、でも答えたら俺も二の舞になるのかなあ」 眠る佳人の厳しい仕置きを受けた、某無能大佐のように。 そして、それもまたやがて、噂話の一つになるのだろう。 リザ・ホークアイ中尉。 眠れる佳人に囚われた、それは夏の日の他愛ない――…… 了. |
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軽く。アップしてみました。
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