「 その手が届く位置に。 」




 「高いっスね」
 煙草の匂いがして振り返ったのは、声が届くよりも僅かに早いときだった。だからたとえそれが突然耳を打った言葉だったとしても、リザは必要以上に驚くこともなく、背後に佇む相手をきちんと理解した上で極めて冷静にその身を翻らせた。
 そして騒音厳禁との注意書きを視界の端に流しつつ、
「珍しいですね、ハボック少尉」
「それはお互いさまですよ……と、言いたいところですが中尉相手じゃさすがに無理ですか。や、ほんと、その通りです。だいたい用でもなけりゃ来ませんから、俺は」
「若しくは命令でもされない限り、かしら?」
「あー、そうとも言います」
 命令を下したのは誰であるか、聞くまでもない。
 同じ直属の上司を思い浮かべるとともに、困った上司をもったおかげで苦労の多い我が身を振り返り、ふたりは同時に苦笑した。それでもリザは対する相手に敬意を払ってか、控えめに。逆にハボックは隠そうともせぬしかめっ面を煙草を銜えながら器用に作って、大っぴらに。
 ……どうやら苦渋だけでは言い尽くせないものがその胸中には渦巻いているらしい。やはり控えめに、リザはそれを黙認した。
 それからややあって急にハボックは背を丸めると、
「それはそうと……」
「少尉?」
 密談でもするかのようにリザへとその大柄な体躯を寄せた。近くなった視線と距離に当のリザは軽く瞳を瞬かせ、ハボック少尉の不可解な行動とそこから続く言葉に見当もつかぬことに困惑を覚えていのたが、――それよりも、ずっと。
(……こんなに、)
 改めての認識がリザの心を一瞬掠めていく。
「手伝いましょうか?」
「? 何を…ですか?」
「いや一点集中で睨んでましたから。僭越ながら俺でよければ」
 僅かな思考のあと、
「……。ハボック少尉、一体いつから見てらしたんですか」
 騒音厳禁の張り紙を一つ手前の棚の角に望みながら、リザは視界の大部分を占めて佇むハボックへと躊躇うことなくその険しい眼差しを向けた。
 ひた、と。
 睨みつけるような厳しさで。
「盗み見をするのはあまり良い趣味だとは思えませんが」
「あ、いや、ちょっと通りかかって見知った人影が見えたもんで……何してるのかな、と」
「…………」
 それを世間では立派に盗み見と云う。細める瞳に絶対零度の冷気が宿り、結果、物言わぬリザの重圧にハボックはますます冷や汗をかくハメとなり――、
「…………すみませんでした」
 直後、深々と頭を下げるに至った。
 暖房がきいているはずの室内で、ひやりと首筋になにやら冷たいものを感じるのはきっと気のせいではないだろう。
 さすが中尉。
 と、本人が聞いたらまた眉を顰めそうな意味不明な賞賛を心密やかに贈りながら、ハボックはなんとか汚名挽回とばかりに懸命に言い募る。目下、問題のそれへと。
「と、とりあえず、あの、本、取るだけ取ってもいいですか? 俺も気になりますし、それに多分中尉じゃ手が届かないような気が」
 見上げていた位置から推測するに、多分というか十中八九。
 だからこそハボックは声をかけたのだ。……まさかこんな崖っぷちに立たされることになろうとは露ほども思わず。
「…………。……そうね、お願いするわ」
 先ほどよりも長めの沈黙が気になるところではあるが、リザの了承を得てハボックはほっと胸を撫で下ろした。
 即座にリザの横脇へとその身を滑らせる。近寄るとふわりと甘い香りが鼻孔を掠め、火はついていないとはいえ、口に咥えた煙草がこの状況においてひどく無粋なもののように思えた。
「……中尉も大佐の用でですか?」
「ええ。ちょっと資料が必要になってここに来たのだけど、思っていた場所になかったものだから……探してみたらあんなところに――」
 上向く視線。
 軍の書庫は広く、かなりの膨大な量の蔵書を溜め込んでいる。よって混乱がおきぬよう書物は種類別に分けられてはいるのだが、量が量だけに間違った棚に収められることも多々あり、或いは借りるまでには到らなかった者がきちんと元の場所へ戻すことを怠るときもある。そしてリザにはちょうどその不運なほうの確率が的中してしまったようだった。
 あともう少しで届くといったギリギリのところがまた悔しさに拍車をかけるのだろう。
 再度、睨むようにして瞳を細めるリザに苦笑しながら、ハボックはその手を伸ばす。余裕をもって棚の一番上の方へと。彼にとっては何の問題もない高さなのである。

           

「あ……ありがとう。少尉」
「いーえ。こんなことならいつでも呼んで下さい。……っと、これですか?」
「ええ、そう、それよ。本当に……誰がこんなところに」
「そうっスねえ」
 誰か知らないが、心の中でひっそり感謝しながらハボックは示した書物の上端に軽く指をかけた。そうしてそのまま手前に引いて持ってこようとしていたのだが。その最中に、
「――――……私も、男に生まれたかったわ」
 ぽつり、と。
 小さな声が洩れた。
「へ?」
 届く言葉の内容に耳を疑っていると、更に強固な呟きが続けて落とされる。
「そうしたら今の貴方みたいに簡単に手に取れたかもしれないわ。こんなところで立ち止まることもなく」
「あー……いや、でもそれは……」
「少尉?」
 他愛ない願望に、予想以上の歯切れの悪さをみせるハボックの反応を受け、リザは首を傾げながら怪訝な眼差しをそのままくるりと背後に向けた。言い澱む声と同様に、見ると彼の表情もやはりどうもぎこちなく固まっていた。――しかし何故。その理由がリザには掴めない。
 そして。
「中尉は……中尉で、いいと思いますよ」
 苦悶の中、捻りだすような言葉が唐突に放たれた。
 その改まった声に今度はリザがやや苦笑いを浮かべてみせた。正直、彼女自身、こんなにも真剣にハボックから返事を返されるとは思ってもみなかったのだ。軽い態度とは裏腹にハボック少尉がわりと真面目な人間であることを、遅ればせながらリザは思い出す。
(……真面目、というよりはマメな人なのかもしれないけど)
 今だってこうしてリザの手助けをしてくれている。盗み見をしていたのは確かに戴けないが、気をつけて見ていたからこそわかったことでもあるのだ。
 苦笑が僅かに微笑へと変わる。
「ええ、…そうね。私も私でいいと思っているわ。だから今のはただの愚痴、もしもの話よ。聞き流しておいてくれる? 今でこそそう思えることだけれど、昔はもっとよく思ったものよ。知らないでしょう? これでもなかなか貴方が思ってる以上に大変なのよ? 女って」
「手が届かない――とか、ですか?」
「そう。手が届かない、とかね」
 金髪に碧眼と、同じ金髪でもやや色の違う同系色の髪をしたハボックに微かな好感を頂きつつ、微笑んで、リザはハボックを見上げた。
 途端に面食らったような眼差しをハボックが浮かべた。
 ……かと思えば。
「ハボック少尉? あの…本を……」
「――――」
「少尉? どうしたの、少尉……少尉!」
「――へっ!? ど、どうしましたか、中尉!」
「……それは私の台詞ではない?」
 いきなりすべての動きが止まって、案じてみれば、逆に問い返され。
 脱力気味に呟いて、
「それより本を……」
「あっ、すいません。――はい、これです」
「ありがとう。助かったわ」
 ストンと目当ての資料がリザの目前へと落とされた。やはり顔を上げて礼を言う。そうしていて、ふと思い当たった事柄に対し、ついまたリザは笑ってしまった。
 その涼やかな鈴の音を思わせる細い笑い声にハボックはただ動揺するばかりだ。
「な、なにか?」
「ああ、いえ、何でもないの。ただ――貴方を見上げるのも大変だわ、と思って」
「は? え、あの、それは…」
 見おろした視界で、堪えきれぬといった風な、そんなリザの笑顔が飛び込んできて、――咽喉を通しかけた言葉を、結局届けることなくハボックは呑み込んだ。
 声になど、できるものか。
 それができるなら、とうに。
 もうとっくに。
(……あー……見てるだけの方が、心臓にはいいかも)
 己の不甲斐無さを一人ひそりとごちて、
「……疲れますか、やっぱり?」
「ふふ、そうね。でも、大変だけど疲れるというわけでも、嫌というわけでもないわよ? それに、貴方には、手が届くもの。だから私が疲れそうになったら、ほんの少し、背を――」
 言いながら、さらりとまた浮かべられた軽やかなリザの笑みを見て。
 思ってすぐに前言撤回をしなければならない自分自身の見通しの甘さを、ハボックは、そのとき呻き声を洩らしそうになりながら大いに叱咤した。きっと、だから自分は昇進がなかなかできぬのかもしれない。
(やっぱ、だめだ)
 手が届くと言われて、微笑まれたりなどしたら。
(見てるだけでも心臓に悪いんじゃ…中尉)
 ――背を、ほんの少し――そうしていいのなら。
(どうせなら)
 抱き寄せたりして、その騒音をもっと身近で感じていたほうがよほど、――よっほど有意義で本望なひとときになるだろう。どうせならそうしたい。それが紛れもない自分の本音だ。
 けれど。だけれど。
「中尉、そうしたら俺、わりと猫背になりますけど……笑いませんか?」
「そうね、少しだけなら」
 自分で想像しても間の抜けた姿を思い浮かべながら、ハボックは苦笑いをして、小さく微笑むリザからそっとその距離を開けた。元の、声をかけたときの位置へと戻り、本を手にし縦にちょうど収まるリザの姿をその視界に入れる。
「それじゃ、そろそろ俺も自分のほう、真面目に探すとします」
「あら、じゃあ手伝うわ」
「ああ、大丈夫っスよ。俺のは大体見当がついてますから。それより中尉は早く届けたほうがいいと思いますよ。大佐、今頃……また消えてるんじゃないかと思いますし」
 もっともらしことを言っている。
 瞬間的に自分を褒めてやりたくなったハボックへと、「……否定できないのが、痛いところね」と、肩を落として神妙に呟くリザの発言が続く。
 リザが本を左腕へと持ちかえ、先に持っていたものと重ねた。
 それはハボックの言を違うことなく受け入れた証拠だった。
「それじゃ……ごめんなさい、そうさせてもらうわ」
「ハイ。あ、あんまり気にしないでいいっスからね」
「ええ。でも今度、また何かでお返しするわ」
 はい、とハボックは頷いた。
 その拍子に甘い香りをまた感じ取り、艶やかな金髪が遠ざかっていく光景をほんの少し物足りなさげにハボックは見つめた。
 それから。
「…………」
 無言で、丁度目の前にあった本を一冊、手に取った。一、二度、手のうちで弄んでから、その小難しい書名に目をやり、軽く考える。
「………………見つかったら、怒られる……よ、なあ」
 そうして僅かな間を置いて棚に戻す。
 先程より、ほんの少し高い位置へと。




 
 所定の場所を移動することとなった書物を見つめ、ハボックは、その背表紙に一度だけ自身の指を這わせた。柔らかく、撫でる。
 彼の女性が、上向いて睨みつけていた場所を慈しむように。


 その手の届く位置に、また巡り合える日を祈って。
 まるで。
 淡く、淡く、――願いをかけるように。



了.




■ コメント ■ 
ハボアイの、ちょっと淡い恋の発展途上話。(のような、違うような)(多分違う)
豆さんがハボアイ描いてくれるって言われたので、そのときの一番、ハボアイはこんなのが
ときめく!
という構図をお願いしました。「高いっスね」って言って背後から本とってあげる、という。
…使い古されたネタですみません。でも自分妄想これしか浮かばなかったの……!
(わりと色んなところで被ってることを、書いてから知った)(ハボアイ・シンクロ率が高いってことで一つ)

しかしいいですよね。可愛いですよね。ハボアイはこう、ハボさんがちょっと弱くて、どっか抜けてて
リザさんもいつもの倍、微笑み多い感じで…………やっぱり鈍いあたりが。(そればっかりか自分)
ハボアイは可愛い+可愛いな感じのカップリングです。わたし脳内。どっちも可愛いんだ…ですよね!

同意を求めつつ、ひとまず退散。
読んで下さり感謝。素敵絵にも大感謝!(豆さんラブ・笑)
BGMは頂きMDから「Why/(Avril LAvigne)」(大変可愛い曲です)

(04/05/25)


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