「 そらからふる 」




「――これで」
すぐ近くで聴こえてきた声は、甘くもなければけして優しいものでもなかった。むしろ世に出回る一般的な睦言とは程遠く、睦言と云うにはあまりに唐突で、更に言うならばまずその根本的な問題として、順番がすでに違っていた。けれどこれ以上なく近くで囁かれた状況を思えば、そうと錯覚するに充分な瞬間で。
それはまるで恋人同士のように。
必然的な行為。
ごく自然に。
だからこそ。
彼は、自身の目と耳とたった今起きたばかりの現実を即座に意識の端へとシャットアウトし、そのすべてを疑った。
そして、人間、驚きすぎると本当に言葉も出なくなるのだという実にありがたくない体験を一瞬にして味わったことも、願わくば夢であってほしいと心から痛切に思った。緩やかに、半分以上壊れたブレーキが思考の片隅で軋んだ音を立てる。
その音は一瞬前に、全身の動きという動きをすべて完全に停止させた彼の中だけで大きく響いた。真っ白になっていく思考の隙間でまるで慰めるように響くそれを聴きながら、


「目は、覚めた?」


瞬間、世界のなかでそれだけが確かな音となって届けられた。
もはや止めようがない。
認識できぬ現実を事実と深く認識させられる。空白だった心と身体に背後からどんっと鋭利な刃を突き立てられたかのように。
五感は敏感にその凛とした声を絡め取り、――視覚には。
「ではハボック少尉。書類の提出は翌々日の明朝までにお願いします」
声と同様に一片も、甘くも優しくもない、ただいつもの表情で冷静に職務を遂行する女性がいた。艶やかな金髪が今日も綺麗に零れることのないよう、きっちりと結い上げられている。
そして厳しくも柔らかくも見えるその鳶色の瞳には、呆気にとられ、茫然自失状態のハボック自身が小さく映し出されていた。
だがそれすらも意識せず最初から無視する方向でなのか、彼女はまるで気にすることなく、
「それでは私はこれで」
そう言って、素早く席を立った。それから未だ言葉もない能面のような顔をしているハボックを後に残し、速やかに室内から退出してゆく。
やがて向かいの席が一つ、ひかれたまま、ぽつんと残った。
それは今の今までそこに確かに彼の女性が座っていたことを、ハボックへと証明する空席だった。
そうしてその空席の前を陣取っていたハボックは、しばらくして、ようやくのろのろと自らの動きを再開させた。もはやどこにもその姿を視認することのできぬ相手が最後に触れた、――唇に手をやって。
「――――――」
更に凍結。だが事実は変わりようがない。
何を思って、何がしたくて、彼女がそうしたのかはこれっぽっちもわからないけれど。
「………………中…尉?」
茫然と捻り出すことのできた言葉に、指に挟んだまま放置していた煙草の灰がはらりと零れ落ちた。



/1



まあ、そもそも。
言うべきことではなかったのは承知している。

「……ハボック少尉、私には君が起きているように見えるのだが」
「いやというか普通に起きてます」
「ん、そうか? ……それはそうとハボック少尉、最近私は稀に目が霞むことがあるんだが、今日はどうも幻覚まで見えているらしい。君が起きているように見える」
「いやというか、だから普通に起きてますって」
それが当然であって当然の視界です。
言うと返答も同じく当然のように、
「では寝言は寝てから言いたまえ」
恐ろしくきっぱりと、ハボックの紡ぎ出した言葉を端から聞こえなかったものとして一蹴された。
(……だから言いたくなかったんだ)
それでも相談を持ちかけたのは他ならぬ自分であることを崩れそうな自制心とともに思い出し、ハボックは懸命に自らに言い聞かせた。こんなことは日常茶飯事だ。
歯に衣着せぬ物言いは、彼の上司、ロイ・マスタング大佐の得意とする精神攻撃の一つであるし、気にしていたらここではあっという間に生ける屍と化す。受け流す術を早めに身に付けなければトラウマになることだって無きにしも非ずだ。
(いちいち気にしてたら馬鹿みるだけなんだよなあ)
だったらそんなものにかかずらっているよりは、まず現状打破に努めたほうがよっぽど時間も効率的で有意義な使い方ができるというもの。慣れた思考で迅速に立ち直ると、ハボックは目前のロイへとできるだけ平静を装って顔を向けた。
すると陰険というよりは陰湿なタチでもある我らが上司は、何故かひどく嬉しそうな笑みを浮かべ、
「しかしまさかハボック少尉がこんなにも夢溢れる願望の持ち主だったとは。いや、この場合、ロマンチストと言うべきか。まったく、人は見かけによらないとはこのことだ」
「ほっといて下さいよっ!」
だから嘘じゃないんですって!!
泣き言を洩らすようにして訴えかけてみても、ロイのにやにや笑いは止まらない。本日お日柄も良く、かなり絶好調のようだ。
こういうときのロイは予想も推測も仮定も大きく覆し、奈落の底に叩き落とさんばかりに、
「それで、その夢のオチは一体なんだ?」
……かなり趣味も悪ければ、意地も悪い人に成り果てる。いやそもそも底意地の悪さにかけて、この東方司令部で彼に勝る者など素晴らしいことに誰一人としていないのだから、世の中なんと善意に満ちていることであろう。
心身ともに灰になりかけながら、ハボックは渇いた笑みを浮かべて満面の笑みと対峙する。…もういっそどこかに逃げさってしまいたい気分である。
所詮、無理だとわかっていても是非そうしたい。
人の夢と書いて儚いと読む。まさしく文字というものは強固にして、時に絶対的な絶望へと誘ってくれる、手段にして最高の布石だ。ありがたくて涙が出る。
「いいから早く話せ。わざわざ時間を割いてお前のつまらん夢話に付き合ってやってるんだからな。面白いオチでもなければやってられん」
「あんた鬼ですか。というか寧ろ楽しんで」
「何を言う。楽しんでいるだと? 馬鹿な! こんな馬鹿馬鹿しいネタ、これ以上なく愉しまなくてどうする」
「………………そうっスか」
東方司令部内に見えてきっとここは荒野の砂漠に違いない。目の前の人に見えて人ではない人も、きっとサボテンか何かだろう。
笑みすらも枯れ果て、枯渇する心の端でハボックはひっそりと固い握り拳を作った。止めようもなく溜め息が零れる。
「だからさっきから言ってるように、ほんとなんですって」
「そんな本当の話があったら、今頃私には金髪の、母親に似て将来有望、美人確定の清楚かつ可憐で目に入れても痛くないほどの可愛い子供が一人や二人、いや三人くらいはゆうに出来ているぞ。どうするそうなったら」
「知りませんよっ!」
というか大佐も大概ロマンチストだという事実に、声を荒げてハボックは突っ込む。しかし呟きはとどまることなく続く。子供はみんな女の子がいいなあ、む、しかしそうなったら嫁には行かすのもきっと惜しくなるな、かといって婿を取るのもどうかと思うのだが…――君の意見はどうだハボック少尉。
「…………」
もはや突っ込む気にすらならない。
ハボックの存在など歯牙にもかけず真顔でロマンチストの極みへと走り出すロイを前に、明後日の方向を眺めながら、結局、思考というのは一人でするものだと改めて深く実感する。だがその前に人選を間違えた。
(……なんだろうね、俺も)
結局、平静を装っているのではなくて、混乱しすぎて思考が麻痺しているだけの話なのかもしれない。
少しずつ少しずつ、時間をかけて氷解している今でさえも、その実、溶解していっているだけではないかと疑ってしまう。それこそさっきロイが言っていたように、幻覚であったと言われてもすぐ信じられるほどに。
だが――。
『目は、覚めた?』
(…………ぶっ飛びました)
意識も何も。覚めて、また本流に呑み込まれ意識を手放したような感じだった。
けれど違えようもなく、煙草を咥えるそこに視覚よりも聴覚よりもずっと確かな感触が残っているのだ。
それは変えようがない。否、変えてみてもいいだろうが、そうなれば解答の見つからぬ疑問があとに残るだけで、のちのち彼女を前にして自分が平静でいられるかどうかが実にあやしくなる。
まったく、理性ほど自信の持てぬものはない。
だが。
だからこそ醜態だけは見せたくないのだ。
(夢であって欲しいけど、あって欲しくないって、矛盾だらけだよなあ…実際)
単純な話、あの瞬間は自分にとって人生最良のものであった。
なににも変えがたく、
なにものにも変えられぬ瞬間であったのだ。
だいたい心から想う相手に触れられて、嫌がる者がどこにいようか。通常ならば、普通ならば、それは喜ぶべきことだ。だがそれは通常であり普通であったらの話であり、この場合、心から想う相手だけれど心が通い合っている相手ではないという前提があるときには、一体どうしたらよいのだろうか。
それが、いまハボックを大いに悩ませている問題だった。
あの時。
自分が放った言葉にまさかあんな返しがくるとは思いもしなかっただけに、それは頭脳労働があまり得意でない自分にとってひたすらに難解で難題な難問であるように思えた。――ともあれ。
「ちなみに名前の候補もそれなりにあるんだが、二人目の名前がどうも中尉にはウケがよくないらしい」
「あんたまだ戻ってきてなかったんですか!」
……突っ込むべきところは満載のようだった。




了.



■ コメント ■ 
ハボアイ本にみせかけてアイハボっぽくなってしまったハボアイ本「そらからふる」の導入部分。
はっちゃけすぎてて大佐ファンから白い目で見られそうです。
でも、こう、わたし、三角関係本とか見るのは平気なんですがロイアイでそれをすると
ハボックさんがものすごく可哀相な感じというか可哀相なの決定しすぎてて
可哀相なので、ロイの本気横槍は書けませんでした。ハボックさんは苦労性。

でもお話は「ハボックさんもリザさんもかわいい」お話を目指しました。
さて、判定はいかに。(’04夏コミ、友達SP「東1 E-10a」に置いてもらってます)

(04/07/25)


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