「 クラシック + 」



一瞬の空気の震えがして、ピ、と。
けたたましくなる直前のそれを押し止める。そんなもはや習慣となった動作を滞りなくいつものように終えて、ひやりと心地よい枕の滑らかさを瞳を閉じたままで少しの間味わう。
そのままそうしていると今度は違った「音」で起こされることになるので、いくらかの時が過ぎてから聖は静かに目を開いた。
見慣れた室内。
洋服ダンスの上の写真立てがきらりとその硝子を反射させて、ああ、朝だなと今更ながらの実感を促す。
我ながら悠長というか呑気というか。そんな目覚め。
射し込む柔らかい光はまだ頼りなく、目を慣らすために何度か瞬きを繰り返していく。そうしている合間に身の内に残っていた僅かばかりの気だるさは、朝の、正しくは春から初夏特有の清々しく澄んだ空気によってあらかた払拭された。
そっと身を起こし、欠伸を軽く零してから頬に流れ落ちてきた己の髪に気づく。
ひとすくいしてなんとなく指に絡めた。
(……長く、なった…かな)
付随して。
そんな自分の髪を切れ切れと忠言してくる可愛い恋人のしかめっ面を思い出して、頬が緩んだ。鬱陶しそうにするたびに、そんなに気にするんなら切ればいいじゃないですか、ああっまた今日も切ってこなかったんですかっ? と日々気にしてくれるのが楽しくて切らないといったら、一体どんな顔をすることか。
(……まあ、教えないけど)
わざわざ好んで楽しみを減らすことはない。
すくいとった髪を無造作に背後へと払い、ベットから抜け出るために、また静かに身を動かす。
ぎし、と手の下で鳴ったスプリングの軋む音に少しばかり顔を顰めた。別段そう大きくもない音だが、朝の静けさのなかでは実際の音より大きく聞こえるのだから人の精神状況というものは割合と色んなことに左右されがちだと思う。静かに起きたいという自分の願望があって、その緊張が音の聞こえを拡張しているのだとわかっていても――それでも、一瞬だけひやりとする。
それから更に気をつけて手を離した。今度はより一層気をつけた分、音も比較的小さなもので、少し嬉しくなる。
しっかと床に足がつき、そのまま勝手知ったる我が家をまず洗面台にむけて歩いてゆく。そうしてわりと大きな鏡を前に、その下にある蛇口へと手を伸ばしながら、
「あー…そろそろ新しいの買っといたほうがいいか」
少しくたびれはじめた歯ブラシを二本、眺めるに到る。
空色と桜色の柄をした歯ブラシ。色は随分と前から決めて定まっているし、また大学の帰りにでも買っておこう。
忘れっぽい自分の胸にそう刻み込み、
「さて」
今日の予定をあれこれと考えつつゆっくりとその蛇口を捻った。



玄関から新聞を取りにいって戻ってくる最中でリビングの時計に目をやる。時計の針はそろそろ一般家庭でも会社や学校に行く者たちが目を覚まし始める頃をさしていて、
「そろそろ…」
思案顔でちいさく呟き、再び足の向きを変える。
淡く、頼りなかった光が、柔らかさはそのままに明るく力強いものへとその光加減を変えていて、頬が緩んだ。けれど踏み入れた場所に視線にやった途端にそれはもう遥か彼方へと追いやられてしまった。…我ながらわかりやすくて思わず苦笑してしまう。
それでも。
「――――」
スウと微かな呼吸音に合わせて上下する膨らみを見てしまえば、目を向けるべき光はここにあるのだと思えるのだからしょうがない。
自分にとっての光はただ、ここに。
この場所に見えるだけのことなのだから。
ベッドへと近づき、その、シーツの波間から覗く光の発信源を上からそっと眺める。細い髪を左右に散らして在る光――まだ幼さの大きく残る少女の横顔が見えて、言葉では言い尽くせぬ感情が小波のように広がりはじめる。
これ、こそ。
本当に教えられないことだ。
――未だ、
「祐巳ちゃん?」
もう怖れを抱くことはないほどの日々を重ね、甘えることを覚え、約束をし、そうして微笑むことが自然とできるようになったというのに。
未だに触れる一瞬に躊躇ってしまう。
けれどそれは失うことへの不安からではなくて。
空気を滑り、そのちいさな頬に触れる。
あたたかい。
ただそれを感じ取るだけで、未だ、こんなにも――。
「……んー…んん…。……あ…聖さま……?」
「うん。おはよう、祐巳ちゃん。よく眠れた?」
なめらかな頬から手を離し、目覚めのときを迎えた相手の眼差しが苦にならぬよう、ベッドの端に腰かける。距離が僅かに狭まった。眠たげに目をこすって、すぐさま身を起こそうとする少女に、いいから、と手だけ先にそれを制する。
「? あの…?」
「もう少し寝てていいよ。まだご飯もできてないし。それに」
不思議そうに仰がれ瞬く瞳に、微笑んで、その目にかかった髪を静かに払ってあげる。少しくすぐったそうにされて、そんなあどけなさに、また。
笑みは深まり、胸の奥、その中心が鼓動を速めた。
「もう少し、こうしていたいし」
「…………」
髪を横に払いながら、何気ないふうを装ってそう呟く。眼前で微かに少女の頬が朱に染まった。それを隠そうとするかのように、言葉なくシーツが手前にもってゆかれる。
その、すべてが隠される前に。
額に触れた。
てのひらだけでは零れ落ちそうな、この、鼓動を伝えるようにして。
そして、伝わらぬことを祈るような性急さで。
「だから、もうちょっとこのままでね」
歌うように言って、唇を離す。
すでに完全に隠れてしまったシーツの下で、今、少女がどんな表情をしているかわからない。だが、それでいい。
自分もまた。
教えることはないのだから。
いつも、どんなときも、たった一瞬のことでも。



触れるそのとき。
どんなに、自分が緊張しているかなどと―――きっとおそらく、



これから先も。






fin.

(04/04/29)
希望糖度20%作品。しかし糖度20%の名残りは最初のほうだけとなってしまいました。
気づけば糖度80%を超えてしまいました。(当社比)……。勘弁して下さい。なんとなく目覚めた聖さまの行動を追ってゆきたかっただけなんですが…予定では「おはよう、祐巳ちゃん」って微笑むところで終わる予定だったのですが……。(何を間違えたんだろう)
時期的に「一、幾年も。」の3、4ヶ月後くらい。髪を切らない聖さまの理由はこんな彼女なりの理由でした、という秘密もこめて。30のお題「シークレット」でした。「クラシック+」のあとに続くもの、という意味合いタイトル。ちなみにクラシックは「落ち着いた感じ」「古典的」で捉えてくださると幸いです。ついでに二人一緒に寝てただけです。多分、まだ踏み込めない領域。(最後余計)
そんな感じで、ここまで読んで下さりありがとうございました。(礼)




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