【 懐古録 】



 わいわい、がやがや。
 人通りの多い交差点を、どこか行き先があるでもなくぶらぶらと歩く。ノイズのような雑音を耳に入れながら歩いていると、まるで自分がこの街の一部そのものであるかのような思いにふと、囚われるときがある。或いは陥るといったほうがいいか。
 街の一部というより、機械の破片と云ったほうがより表現としては近い。些細な違いだ。けれど無機質なイメージというものからはどちらもそう違いはないと思う。
 味気ないし、そっけない。
 どこか曖昧な世界。
(無味無臭? …うん。そんな感じかも)
 こうも人が溢れているというのに、誰もかれもが何かのパーツのようであり、ネジのようにも見える。無論、この佐藤聖という人間も例外ではない。
 多すぎて、曖昧すぎて、世界を構成する上で特に必要とされるのは極端な話、そのごく一部のパーツで。
 それが人によっては「選ばれた人間」と称されるのだろう。
 もっとも、自分には特に興味も関係もない話だが。






 ぶらぶらと交差点を渡り終えて、目当てのない足は気の向くままに目の前に用意され、いずこかへと伸ばされた道を歩いていく。それは選ぶというほどの明確な意思もなくただ気まぐれに、適当に。
 もっと云ってしまえば、そこにあったからなんとなく。
 ふと横を見れば、綺麗に装飾された硝子の向こう側に目も眩むばかりの煌びやかで明るい世界があった。雑然とした街並みの曖昧さはどこにもなく、人々の望みを押し込んで美しく彩られ輝く箱庭。これもまた自分には無縁の世界。
 それ故にまるでブラウン管を覗き込んでいるかのような、どこか遠い錯覚を覚えることが今までもしばしばとあった。
 だがそれも気持ちの持ちようや、状況によってはどうにでもなるらしい。現実味の薄い印象は未だ拭いきれないけれど、以前は入ろうとすら思いもしなかったその世界に今はココロが揺り動かされているのがわかる。
(どうしようかな…)
 悩んで立ち尽くしていると、硝子の向こう側の住人と目が合ってしまった。静かに微笑まれ、その品の良い笑みにもう一つ別の笑顔がふっと浮かんでみえた。目を輝かせて、明るく無邪気に喜ぶ顔。けれど……。
(ちょっと、違う…かな)
 似合わないとは思わないけれど、もっとぴったりくるものがあるはずだと頭の片隅でそんな直感が囁きかけてくる。軽く笑って、また機会があったらね、と心のなかで告げる。
 そしてまたアテもなく歩き出した。






(何やってんだろうなー……暇なのか、私は)
 事実、だからこうして歩いているのだが。
 途端になんだか妙に間の抜けた行動を自分がしているのではないだろうかと思い始めてしまった。……気づかなければよいものを。自嘲気味に唇の端を吊り上げて笑う。
 しかし急転直下な物思いに沈むと、だんだんそれも心地よくなってくるのだから気分というものは不思議なものである。その時々によって、捉えかたも変わってくるのだから。
 暇なのは確かに暇で。
 予定はないのだから、何でもできる。
 そんな発想の転換までして自らを慰めるところが、我ながらなんとも図太いと云おうか楽観的と云おうか。
 そんなふうに変わることができたのは、本当に、ここ数年で予想外のことが色々とあったせいだろう。
 空の果てを眺めながら、くすくすと苦笑が洩れた。
 その最たる人物を思い出して。
(今ごろ何してるかな)
 トレードマークのツインテールがあわただしく上下に揺れ、この空の下、懐かしの学園を駆け抜けるさまが一つの映像として浮かぶ。
「もう、三年だもんなあ」
 あの、祐巳ちゃんが。――などと、本人を前にして続けたならば、きっとふてくされて怒ること間違いなしだろうことを続けて小さく呟く。
 もう三年生。いいや、けれどまだ、三年生というべきか。
 そうして出会ってからの年月はというと、実にその三年にも満たぬ日々。歳をとるたびに時間の経過は早く感じるものだとこれはよくよく云われることだが、こと、それが福沢祐巳と云うそそっかしい一人の少女を前にしたならば、その先達者たちの名言すらいとも容易く霞んでしまうのだからこれもまた不思議なことだ。
 たまに遅いと感じるときすらある。
 まだ出会って三年すら満たない。それなのに。
 気持ちだけは膨らんでゆく。時間だけが追いつかない。
(今、何してる? 私のことでも思い出してくれてると、うれしーかなあ)
 まあ、きっとそんなことはないだろうが。
 学生は学生で忙しいのだ。数年前の自分の居場所と、今現在の自分の居場所を思い出して、さっくりと答えを弾きだす。そして、
「……さて。そんなわけで、ほんとにどうしようか」
 問題は最初のそこへと戻った。






 ぶらぶらと道の端を歩く。
 明るかった陽射しが少しずつ色合いを失せてゆくなか、気まぐれに立ち寄った場所では友人の一人に、「来るときは事前に連絡。今日は忙しいの、だからあなたの相手までしてられないわ」と、実にそっけなくフラレてしまった。寧ろ、何の迷いもなく、といったほうが正しいか。
「あれが祐巳ちゃんと一緒だったら違うんだよなあ。むむっ、おのれ、差別だ! 差別断固はんたーい」
 聞かせる相手もいない文句は、ただの愚痴でしかない。
 そしてなにより虚しい。
 ……。暇な日だった。
 ひたすらに暇な。
 それはいかにも大学生っぽい日ではある。けれど現役高校生は、真面目に授業を受けるべきごくフツウのありきたりな平日で。一緒に遊ぼうと、誘うことは当然のこと、無理で。
 結局、今日は一日適当にそのへんを歩き倒して、帰途につく――そんな実に内容のない薄く気ままな一日だった。
 空しさを振り切るようにして、サンダルをカタコトと鳴らしながら歩き続ける。
 重なるようにして、ガタンガタン、と電車の通る音が聞こえてきた。丁度今、何処かに行く途中の電車が、スピードを上げながら通っているところなのだろう。耳に残る電車の通過音に、ふっと懐かしさが甦る。
 それは。
「……あ」
 ふと、目に飛び込んできたものに、思わず小さな声が洩れた。それは他愛もない。
 道端に咲くちいさな草花を前に、そっと腰を落とした。それは誰もが知る、黄色い草花。細い花弁が上下左右に重なり合って、ふっくらとした印象をもたせるその花は春の訪れにはかかせない季節の花である。
 可愛らしい花弁の連なりを見ていると、わけもなく嬉しくなる。
 頬を緩めかけ、そこへ、細波のような感情が胸のドアをノックした。
 鮮烈ではなく、ほっと安堵するような緩やかな音を届けて。
「そっか……これで、いいんだね」
 自らに問い掛け、そのまま答えを受け継ぐ。綻びを満開のものへと変えるために。
 そっと手に取ると、あたたかい空気がてのひらに零れ、それは明るい色を咲かせた。






 自立するから、といって実家をでて借りた大学から程好い場所にあるマンション。渡された部屋の鍵を元に、作られた合鍵は二つ。だから同じ鍵は全部で三つあることになる。
 自分の常備用と、万が一なくしたときの予備用、と、そして。
「――――――……あれ?」
 部屋の扉を前に、間の抜けた声が洩れた。差し込んだ鍵がうまく回らない。というよりは、なにか微妙な違和感。鍵を差し込んだときの感触がちょっとでも違うと、今ではそれだけでなんとなくわかってしまう。慣れたものだと今では本当に感心してしまうけれど、慣れというものは恐ろしくも実にわかりやすいものでもあるのだ。慣れてしまったがゆえに、いつもとなにか違っていると。
 ぎこちない鍵の回転の末、開いた玄関がまず真っ先に視界に飛び込んでくる。
 そしてそこにそれはあった。
 自分のもの以外の「誰か」の靴。
 きちんときれいに揃えられ、来客スタイルで置かれている。
 誰のものかなどは最初から疑うべくもない。
「……あ、やっぱり。おかえりなさい。聖さま」
 相変わらずいくら言っても変わらない呼び名を聞きとめ、軽く肩を落としながら、出迎えのためにかけてきたのであろう少女を見つめる。
 ツインテールは今日も健在。
 少しだけヨレたリボンが忙しかったのであろう一日を微笑ましく思わせた。
「来てたんだ」
「はい。あ…でも、もうすぐ帰らないといけないんですけど」
「送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です」
 それに、と少女があどけなく笑う。
「たった今帰ってきたばっかりのひとに、それはちょっと。だから今日は一人で帰ります」
「むう、なんだか年寄り扱いされてる気分」
 別に気にしなくていいのに、と心の中で返す。ツインテールが慌てて揺れる。
「そ、そんなことないですよ。あ、ほら、咽喉渇いたんじゃないですか? お茶だけ煎れて帰りますから」
「そして、今、話題を逸らされ………」
「冷たいのでいいですよね!」
「…………」
 なんだかあしらい方……もとい、会話の方も以前と比べて随分と円滑になったような気がした。合鍵を渡した日から、今日に到るまでの間。思って苦笑する。
 日々は、いやでも重なってゆくし続いてゆく。
 ふと、気づいたらいつの間にか何かを成長させていたことを教えながら――それはとても些細なことだけれど、尊く、嬉しいことだと思えた。






 じゃあ、と少女が言って、また、と笑って付け足した。
 漠然とした未来の中で、一番近い未来を約束する。意識することのない、こういった自然な言葉のやりとりがとても好きだ。こんな時間がいつまでも長く続いてほしいと思う。
 ドアを押し、赤と白のまじった光が、開いた扉の隙間から素早く入り込んでくる。
 斜めに、だけれど真っすぐに。
「祐巳ちゃん」
「はい?」
 名を呼ぶ。そんな瞬間もとても愛しいものだと教えてくれたのは、今よりほんの少し前のこと。
 きょとんと振り返って瞳を瞬かす少女に、不意打ちのキスを唐突にしたくなったものの、ぐっと堪えて当初の目的を果たすべく、明るく笑ってみせた。
「あげる。今日のおみやげ」
「へ?」
 眼差しにちらつく黄色の色彩。
 大地の上で風に揺れることも太陽の光を浴びることも叶わなくなったそれは、寂しげにもみえたが、手に取った少女の笑顔の前ではそれも杞憂であるように思えた。
「わ、もう咲いてるんですね。タンポポ」
「うん。でもこれはほんの少し早咲きかな。他にはなかったから……だから余計に、ちょっと、罪悪感?」
 せっかくの大地からつんでしまった。苦笑いが自嘲気味になってしまわないかと気をつける。しかし。
 でも、と思う心もまたあって。そのココロを引き継ぐように、
「――でも、嬉しいです。ありがとうございます…帰ってちゃんと水あげて、部屋に飾りますね。だからきっとだいじょうぶ、許してくれますよ」
「そうだといいな。祐巳ちゃんも、そう祈っててくれる?」
「はい、もちろんです」
 にっこりと笑って、疑うことを知らぬ花がそのまま綻び、満開に咲いた。
 見たかったのは、そんなふたつの花と花。
 ぶらついた今日という一日を思い起こす。
 特に予定もなく、ぶらぶらとして、花を一輪つんで、家路についただけの、これといって劇的なことなど何もありはしない、ありきたりな一日。
 けれど。
「なら、安心かな」





 いつか懐古するには充分な要素をもつ、そんな、確かな一日であった。






fin.




(03/08/09)

聖祐巳、春の日のある一日。ありきたりな一日。ごくごく平凡な一日。
でもそういう一日が越せれることが平和だなあ、とか、おっとり思って過ごすしあわせ。
何十年か前のこの日には、そんなことも言っていられなかったのだと思うと、記録というのは大切だな、とか。殊勝にも思ってしまいます。
書きたかったのは、劇的なことなんて望んじゃいないよ、ていう聖さまの一日。
ありきたりで、平凡であればいい。
そんな平凡な一日を懐かしむものなんだと最近よく思うので。……。寧ろわたしが懐古的。
…………。(歳?)
えーと。
書き方、いつもと少し変えてラクしすぎててましたけど(そして大学生の生活は聞いたことを少し真似て書いただけの超無礼な適当さ加減ですが)、書いてて楽しかったです!
読んで下さり、ありがとうございました。多謝。(礼)




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