最近困っていることがある。
――――本当に、とてもとても困っている、の、だけれど……。









「  ひ と り ひ と り 」





「祐巳」
 軽やかな、それでいてしっとりと落ち着いた声が耳に届く。考えるまでもなくそれは敬愛するただ一人の姉、小笠原祥子さまの呼び声。もっと詳しく言えば、自分を呼ぶ声、と限定できる。
 祐巳、と呼ぶその声にいつになっても溶けそうなほど歓喜に満ちてゆく心を抑えることができず、
「はい、お姉さま」
 と、微笑んで祐巳は振り返る。自然と緩む頬はもうしょうがない。だってこれはもう癖に近いものがあるのだから。
 ふわふわと浮かんでゆく心に笑顔を浮かべたまま、祐巳は、そう振り返り――、
「お姉さま」
「へ?」
 もう一方から聞こえてきた声に気勢を削がれ、止まってしまった。
 ……これもまた耳に聞き覚えがある。とてもとても、聞き覚えが。というよりあって当然。だって、と振り返りかけた状態のまま祐巳はその答えを弾き出す。トッと半転しかけた身体を一歩後ろに引く。
 途端に、すべての光景が視界に入ってきた。
 左には敬愛する紅薔薇さま、こと、祐巳にとっては唯一人のお姉さま。
 そして右には――――。
「可南子ちゃん………あれ、どう…したの?」
 つい最近、ロザリオの授与を正式に済ませたばかりの妹――細川可南子ちゃんの姿があった。今日もさらさらの黒髪がとても綺麗に背中を滑り落ちている。静かな微笑みを浮かべた、自分よりも背の高い妹というのはなかなか切ないところはあるけれど、別に祐巳だって背で妹を選んだわけではない。ちゃんと、理由があって、そうしたいと思ったからロザリオの授与を行ったわけで。
 なったばかりの姉と妹。
 初々しく、導くはずの妹である可南子ちゃんより、お姉さまである筈の祐巳の方が初々しいだなんてことはきっと気のせいだ。
 戸惑う祐巳の視界の両端で、にっこりと微笑みを湛えた両者がどこか空恐ろしい気がするのも……きっと気のせいだと思いたい。
「え、ええと、えっと……」
 タイミングよく両者に呼ばれ、祐巳はその場で立ち往生をしてしまう。自分の立ち位置が二人の丁度真ん中、どちらともに一定の距離をおいて佇んでしまっているのが更なる問題を呼んでいるようにさえ思える。せめて、どちらか一方に――この場合、祥子さまのほうだと云えるが――駆け寄ったあとであったならばこんなにもまんじりと立ち尽くしてしまうことなどなかったのではなかろうか。
 笑顔の圧迫感というか、奇妙なプレッシャーを感じる祐巳の左右で、
「祐巳、ほら、タイが曲がっていてよ」
 直してあげるわ、とお姉さまが微笑んだまま言った。
「お姉さま、紅茶を淹れましたの。どうぞお座りになって」
 うまく淹れられたか感想を聞きたいですわ、と可南子ちゃんが微笑んだまま言った。
 そして祐巳は。
「え……えっと」
 板ばさみの状況にだらだらと冷や汗をかきながら、非常に重苦しい空気に困り果てていた。
 どちらも大切。どちらも愛しい。
 だから今そのどちらかを選ぶことは、そのまま相手の臍を曲げ……もとい、傷つけることになりかねない気がする。それは御免こうむりたい。大袈裟であろうがなんであろうが、なんとなく、そう思ってしまう祐巳である。
 そうして、なんてタイミングが悪いんだろうと密かにうな垂れる祐巳だったけれど、もともとそこにタイミングなどというある意味奇跡で偶然な一瞬が存在していないことにこそ、早く気づくべきだった。
「祐巳」
「お姉さま」
「――――う」
 にっこり麗し笑顔になにやら双方とも熱い火柱があがっているような気も段々してくる祐巳は、ただ対処に困って視線を泳がせるばかりである。おろおろと挙動不審にすら思える姿は、他に見る者がいたらあまりに不幸な立場を思ってそっと目頭を押さえたかもしれない。
 けれど放課後の薔薇の館は、今のところお姉さまと可南子ちゃん、そして祐巳の、三人だけの密室空間。
 つまり誰の助けも介入も当分の間は望めそうにないということで。
「どうしたの? 祐巳、ほら」
「お姉さま、淹れ立てをどうぞ」
 そろそろ火柱どころか、紅蓮の炎が沸き起こってしまいそうな一触即発な雰囲気に、とうとう堪りかねた祐巳が降参の声を上げる。即ち、
「あ! あああああの、私、ちょっと教室に忘れ物をしてきたみたいなんで、取りに――……」
 本当の本当に、回れ右の降参ポーズにて脱兎の如くその場からの脱出を試みる。
 が。
 押しのいまいち弱い哀れな子羊の提案が通ることは、
「――――その前にタイは直してゆきなさい。祐巳」
「――――せっかくの紅茶が冷めてしまいますわ、お姉さま」
 …………非常にも、なかったといえる。



尚一層深く披露される笑顔は、マリア様の慈愛よりも広く、敬虔なクリスチャンをも退けそうなほど、大きな愛に満ちて一人の少女にむけて注がれる。
世界にただひとりの妹と。
姉にむけて。




 それはマリア様がいつもの優しいご尊顔で眼下を眺めていらっしゃる、とある放課後の話。






(03/08/22)

お約束と王道とベタをこよなく愛するひとなので。
誰もが思いつくであろうベタな展開話を敢えて書いてみました。仮想的・姉妹な小話。
もし姉妹になったら是非こんな感じでお願いしたいところです。瞳子ちゃんだとありえない話です。ついでにこの後どうなったかはご想像にお任せ。(中途半端/すみません…!)
な、なにあともあれ、読んで下さり、ありがとうございました。(礼)




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