「 空に咲く花 」



  洗面台の前に立ち、いつものように蛇口へ手と視線を落とす。するとおそらく前の棚から転がり落ちたのだろう水色の歯ブラシが一本見えて、
「……また聖さまったら」
 思わずそんな嘆息が洩れた。歯ブラシを拾い上げ、転がり落ちたというより寧ろ放り出されたように見える可哀相なそれを、もう一度ゆっくりと眺めてから所定の位置へと戻す。
 白い泡を儚く閉じ込めた半透明の硝子細工のコップの中には、こちらも一本だけぽつんと淡い桜色の歯ブラシがあって、どこか所在無さげに寂しそうに斜めに傾き、佇んでいる。
 人ではないのだから形容的には置かれている、挿さっているといったほうが正しいのかもしれないが、なんとなくそう形容してしまった。
 そこにかつんとちいさな音を立て、水色の歯ブラシが収まる。
 一本だけであった歯ブラシが二本に増えてまるでそこに桜色と水色の花が咲いたよう。
 思って、少しだけ笑みが零れた。
 それから自分の思考が導いた想像力に僅かに照れ、見咎めるひとがいなかったことにほっと安堵した。もし今ここにいたら、きっと間違いなくまた百面相をしてると指摘されていたことだろう。きっと、――きっとだ。そういうところだけはいつだって抜け目がないのだから、あの人は。
 だからいつだって自分は振り回されてばかりで、主導権を握ったこともあまりない。
「そもそもあんまり握れたこともないんだけど」
 ……自分で言っててすこし虚しい。
 それでもそう理解し、事実として認めざるえないのだからしょうがない。
 しまったなあと一人ごちてから、事の発端である歯ブラシを眺め見る。
 仲良く一つのコップに収められている光景がまた少しばかりの気恥ずかしさを呼んだが、これを買ったときのことを思えばそれもまた大したものではないだろう。
 本当ならこの水色の歯ブラシは自分が使うはずだった。その筈だった。
 だが……。
「変なところで子供っぽいんだから……」
 水色は私、だから祐巳ちゃんはこっち。
 強引に取り替えられた歯ブラシを唖然と見て、反論した自分にあっけらかんと返した、まさしく歯の浮くような言葉。あぁ、今思い出しても顔から火がでそうだ。何故そこまで、こんなたかだか歯ブラシ一本の色に拘るのか。お店で押し問答をし、あまりに粘るので仕方なく了承してみせたときの笑顔がふいに思い浮かぶ。「やったー」とまるで子供そのもののように喜び勇んでいた。そのくせ、今ではこの無造作な扱いときた。
「まったく」
 別に不満があるわけではないが、毎度毎度、零れ落ちた歯ブラシを元に戻す自分の身になってもらいたいものだ。
 花のように咲く二本の歯ブラシを軽く睨みつけて、水色の歯ブラシをこつんと指先で爪弾く。硝子コップの中で、綺麗な音を響かせながら水色の歯ブラシは自分のものまで巻き込んで縦横へと揺れ動いた。そしてやがて止まる。
 斜めに咲く花はやはり二本。
 変わらぬ光景に、自然と頬が緩んだ。
 自分を巻き込んで、尚、花は咲く。
 今のこの現実を見事に表しているようで、本当にしょうがないひとだと微苦笑が零れ落ちた。そうしていたら玄関の方から「おーい」と唐突な呼び声が届いた。
「祐巳ちゃん、まだー?」
「あ! はーい、今行きます!」
 何の為に洗面台まで来たかを即座に思い出し、慌てて水道の蛇口を捻って手を洗う。それから備え付けのタオルで手を拭いてから鏡で身だしなみをチェックする。
(変なところは……ない、よね? うん、だいじょうぶ)
 その僅かな合間にも玄関で自分を呼ぶ声が徐々に音量を増していって、あんまり大きな声で名前を連呼するのはやめてほしい、と気恥かしさに薄い頬が朱に染まった。あとでまた注意しておかないと。
「…っと、よし」
 鏡の前でそう呟いて、足元の鞄に手をひっかける。それからもう一度だけ、最後に二本の歯ブラシに目をやった。
 花は今日も二本、仲良く並んで咲いている。
 空のような水色と。
 春のような桜色の。
 それはきっと日常にある些細な、





(だってそのほうが私は嬉しいなあ。で、祐巳ちゃんが桜色にすれば……ほら、水色の空の下で綺麗な桜が咲きますようにって願掛けにもなるしね? だから祐巳ちゃんはこっち、私は水色。それでいいの、それがいいの、だから決定)





 愛しさという名の、花に違いないのだろう。
 行ってくるねとそれに告げてから玄関へと駆けてゆく。傍迷惑な呼び声はまた甲高く、その大きさを増したようだった。





 あとには空のような花と、春のような………


fin.

(04/05/16)
…多分、聖さまの甘えてる話?(疑問系?)
こういう書き方はラクでいいです。その分、苦手なひとには苦手そうな文面ですが。わたしはこういうさりげないラブというか、チラリズムラブを書くのが大好きでして…。とりあえず日記にアップした時より文章を少しずつ修正して、ほんの少し加筆しました。
しかしいつ読んでも聖さまのくだりがやってられないくらい甘いです。ごめんなさい。書いたのわたしですけどごめんなさい。サイト創作は本当に難しい……。




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