祈りって なに?

グイノ神父のホームページです

内容:      1− 祈りって なに   
         2− 主の祈りについて
        3-僕の祈りの仲間たち

        4-初代教会のシンボル
   NEW 5−トランプの祈り
 
主の祈りについて。。。どうぞこちらへ
 
僕の祈りの仲間たち。。。どうぞこちらへ
どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、絶えず祈り続けなさい。エフェソ6,18


             

  
    聖書によると、神は人間を創造された時 彼の鼻のうちに 命の息を吹き込まれたそうだ。  それは、ある意味で 人間が神と一致しながら 神と呼吸するためである 。  祈りは それを可能とする。 なぜなら、祈る人は 神に属することや神に寄り頼むことを示すと同時に 自分の心を神に開き、その奥にあるものをすべて ありのままに神に打ちあける。  人は どこでも、どんな時でも、自由に祈ることが出来る。   

    また、座ったまま、立ったまま、あるいは 横になって, 伏して、ひざまずいる状態でも、また歩きながらも 人は、いつも、至るところで、どんな状況の中に置かれても 祈れる特長をもっている。  ひとりで、又 大勢の人と合わせて、更に、天使と聖人の声と合わせて、信仰者は、毎日朝早くから 晩遅くまで、真夜中でも、いつ、どこでも、神に感謝と賛美の祈りを捧げることは 尊い大切な務めだとよく知っている。  祈りは神との出会いの場であるから。

    他の文化の優れた国の人々と同様に、イスラエルの民も、自分の神に向かって祈っていた。 彼らの祈り方は 「詩編書」という書物の中にまとめられている。  神は、詩編を与えることによって、自らが聞きたいと思う言葉を人間の口にのぼらせ、祈りとは 何かを教えるのである。  詩編には度々同じ表現が繰り返されているが、この詩編の書は単なる祈祷書でもなければ儀式書でもない。  詩編の祈りは、あらゆる状況における人間の実存を出発点としている。  そこには 孤独の雰囲気はあまり感じられず、広場や戦場の騒音がよく聞かれる。

   神に向かって 叫びや嘆きの声が 発せられているのは、祈る人が すべてを 投げ打って、つまり 全身全霊をあげて 神を希求している事の印なのである。  詩編の祈りでは、体と心は 人間生活の他の領域におけるように、試練と喜びを表現する役割を果たしている。  詩編作者は、よいものは何でも探求しているが、それを神以外のものからは期待していない。  試練の時、響きわたる嘆きの叫びが 詩編作者の疑問を表わす。

   そして 「いったい神の計画は挫折してしまったのではないか?」と問いかける。  詩編の祈りの基調となっているものは、神への信頼である。  祈る人は、喜びから涙へ 涙から喜びへ大きくゆれながら、神とその摂理に対する信頼を堅持し、祈願と感謝の間に バランスを取っている。  神から何かの恵みを期待する者は、この恵みと共に 実は 神自身が自らを与えようとしていることを見出すよう招かれている。  こうして 詩編では、神の面前で 生きる喜び、神と共に ある喜び、神の家に 住む喜びが 歌われる。

   


       祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、父に祈りなさい。マタイ6章6節
 
   イエスは 人間となることによって、絶え間なく神に祈願する人類の一員となる。  彼は、「祈る時には こう祈りなさい」と言って、祈りの必要性よりも むしろ祈りの方法に重点をおいて教えた。  聞き入れられる という確信こそ 祈りの源泉であり、条件であるとイエスは教える。  特に 神が 遠い存在であるかのように、くどくどと同じことを繰り返さないこと、兄弟を赦すこと、兄弟的一致を実現しようと努めること、自分の過ちを思い出して悔い改めることこそ、肝心である。 また、絶えず祈ることも大切である。祈りにおける忍耐は試され、どれほど目ざめて祈っているか、明らかに示さなければならない。

    祈りは イエスの生き方の中で、極めて重要な位置を占めている。  彼は、しばしば祈るために 自分だけ山に登ったり、人々から離れて 祈ったりしており、又、弟子たちが彼を探している時さえ祈っている。  キリストの祈りも 信仰者たちの祈りと同じように、いわば手探りしながらその対象を求めている。 「私の思いのままにではなく、思し召しのままに」 (マルコ14,36)と。  信仰者も、何をどのように祈るべきかを知らなくても、自分の中で祈る聖霊の働きにより、神から招かれている深い神秘、言い換えれば 愛 そのものに 到達できるという保証を得ている。  聖霊を通してなされる祈りは、現実からの逃避ではなく 反対に、天と地の出会いへの呼びかけ、すなわち神の親しさへの叫びとなる。  「アーメン、主よ来て下さい。」
                                                


                              

      キリストは、激しい叫び声をあげ、涙を流しながらご自分を死から救う力のある方に、
     祈りと願いとを捧げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた。   ヘブライ5,7


   詩編書、それは150編の詩、命と死の間を進む150の歩み、反抗や信頼、死の苦しみや復活を映し出す150の人間の姿を集めた小さな書である。  一冊の書物というよりは、むしろ 神と人々に話しかけ、苦しみ、つぶやき、不平、苦情、死をそして 永遠の門出に復活して歌う存在である。 

   私たち人間の叫び、すなわち 人間の愛や自然を賛美する歌、苦悩や死を前にしての不安、社会の抑圧、そういった人間 ー私たちのー叫びの全てが詩編にある。  背むきの暗闇の中にも、神は私たちと共にいて、共に叫び声を上げて下さること、冒とく、侮辱のことばすら、それが真実であり、私たちの生きた体験から出てくるのであれば、賛美のことば同様、祈りになることをおしえてくれる。  遠慮なく、信仰者は歌いながら、手を打ち鳴らしながらも、また、 タンバリン、竪琴,楽の音にあわせて踊りながら神に自分自身を賛美の供え物として捧げる。

   キリストが、私たちに連帯してこの詩編の祈りを祈られたのであれば、 私たちがこの詩編によって祈ることはやさしなる。  イエス・キリストにおいて 完全に示された愛を、私たちの心に注がれる聖霊によって、私たちは全き 信頼をもってそれを祈ればよい
詩編書の中に見つける様々な種類の祈り

巡礼の祈りー都に上る歌 詩 120-134
救いと創造の神を賛美する祈り 詩 8,104,113,114
近くにおられる神を賛美する祈り 詩 84,119、139
希望の祈り 王である神 詩 2,21,45,101,110
嘆願と感謝の祈り 詩 22,51,109
生きるための祈り 詩 49,73,91,139
呪いの祈り 詩 109
悔い改めるための祈り 詩 51
死を真近に感じる病人の祈り、
不正に押しつぶされた貧しい者の祈り,
   捕囚の民の祈り、受けた勝利のための祈り、
敵を前にしての祈り、
罪の告白の祈り、
昔の出来事を思い起こさせる祈りなど、など。



 


  
   パンは 上に何かをのせてこそおいしいのであり、ジャムは 下になにかがあって 始めて実においしいと言うことを、 誰でも知っています。

   ある食いしんぼうの子供たちは、薄切りパンの上に、両手を汚してあちこちからたれ落ちるほどのたくさんのジャムをのせます。  又、他の子供たちはもらったジャムの量にしてはひと切れのパンが大きすぎると思います。  実は、ジャムのおいしさを薄切りパンの表面全体に、うまい具合にい塗り広げることが出来る子供は、気の利いた子供です。

   私達は 毎日、父である神さまに、日々のパンを下さるように祈ります。神さまはパンを下さり、加えてジャムもお忘れになりません。  なのに私たちはいつも、文句を言いがちです。  日々の数々の出来事は、神さまが下さったパンが固過ぎるとか、 足りないとか、私たちに思わせます。あるいはパン切れにはたくさん穴があいているとか・・・生活上のつらい打撃は、このパンが歯を痛めたり、胃痛を引き起こしたりする食べられないものであると思われます。  私たちが、すべては単調でむなしく無益なもののように感じる時、人生は上になんにものせていない、カチンカチンのパンの切れししかくれないと、愚痴をこばします。  私達は、ジャムと同じように 隅ヶまであふれている、限りない幸福を望みます。

   しかし,善い父であり、私たちよりうんと賢明である神さまは、その時 その時に かぐわしさと味わいを与えねばならない 今の恵みを、いつも 与えて下さいます。 神さまは、私たちがこ自分のように賢明であることを、そしてまた、幸せや喜びのほんの一瞬を、ジャムのように私たちの存在の全領域に、具合よく広げることを覚えるようにお望みです。 

   もし大きなひと切れのパンをよりおいしいものにするために、ほんの少しのジャムで足りるのなら、英知は、神さまが与えてくださるわずかなものだけで、私たちの全人生を味わい深いもの出来るのではないでしょうか。  神様が 私たちに、ある日 永遠の対面のうちに与えてくださるのを、又、限りない幸福と 喜びを伴って、ジャムより もっとたくさん、いる所にあふれ落ちるものを、忍耐して受るように 日々学ぶのが 賢明なのではないでしょうか?

                                    (もしも・・・グイノ神父作)より


 初代教会のシンボル


X(キー)と P(ロー)は、
ギリシャ語のキリストの名前の最初の字です。
また、イエスが十字架につけられたことも表します。
魚はキリストの象徴です。



A(アルファ)と ω(オメガ)あるいはΩ(オメガ)は、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後の字です。十字架につけられて、復活された主キリストが
全ての初めと終わりであることを表します。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」(黙示録21,6



IHC 「IN HOC SIGNO VINCES
 「この印によって勝利を受ける」
と夢の中でコンスタンティヌス皇帝に神が言われました言葉です。

17世紀のイエス会の司祭たちは、 IHCIHSと変化させて、
Iesus Hominem Sauter
「人間であり、救い主であるイエス」と
 新しい意味を与えました。


(すき)の形を示すこの絵は
古いアダム(逆さになったA)が埋められた場所で
十字架につけられた新しいアダムであるイエス・キリスト
十とAは復活したことを表します。

同時に、この絵はすべての人の復活を思い起こさせます
「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、
キリストによってすべての人が生かされることになるのです」
(1コリント15,22


これはペトロの組み合わせ文字です。
PE (Petrus)を示しながら同時に
それは鍵の形を表します。



更に、キリスト(X to P)の組み合わせ文字に
Eを加えることで
キリストは聖ペトリにあて天国の鍵を与えたことや
ペトロがキリストのように
十字架につけられたことも
思い起こさせます。



魚はキリストの象徴です。

イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもあります。


太陽と魚のことばは、
救い主イエスは世の光であり、
神の栄光であることを表しています。



二匹の魚はキリスト者を示し、錨はキリストの信仰が与える揺るぎない希望を表しています。
「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものである。」(ヘブライ6,19

おかれた月桂冠は、亡くなられたキリスト者は殉教者だと表しています。


ランプと魚は、
キリストは世の光であることを表します。
キリスト者はイエスの教えで
自分の日常生活を照らします。


この古いシンボルは キリストとキリストを信じる人の洗礼と共に復活を表しています。主イエス・キリストを信じる人には永遠の命の泉と共に、栄光と勝利の冠が与えられることを示します。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7,38
信じる人はあらゆる面でイエスと一致しているからです。
〔キリストの名を囲む 栄光の冠の下に 生きた泉の水が流れます〕
「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」 
(使徒言録2,21)


ダビデの星はキリストが 
ダビデ王の子孫である事を思い起こさせます。
又、このシンボルが現わすものは 1週間には7日あり、
その中で最も大切なのは
 「安息日」「主の日」であるということです。
 星の中央で それを示しながら
 更に キリストに結ばれている
信仰者の共同体をも 現わします。

「主イスス・キリストの名によって、心を一つにし
思いを一つにして、固く結び合ってください。

1コリント 1,10



ギリシャ語のICHTUS(魚)の一つ一つの字に
意味を与えると
I :イエス CH:キリスト T:神 
U:息子 S:は救い主
iesus christos theou uios sauter となります。
「イエス・キリスト神の子救い主」
また 一匹の魚がキリストを示し
二匹がキリスト者の共同体を現わします。

「あなたはメシア、(救い主)生ける神の子です。」
マタイ 16,16



錨は、信仰者の希望がキリストであり、
また、キリストの十字架のうちに希望を置くことを表します。
錨の下に見える水の印が、洗礼の恵み、永遠の命を表します。

「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、
安定した錨のようなものである。」(ヘブライ6,19

「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」
(コロサイ
1,27


良い牧者であるキリスト

「私は良い羊飼いである。
私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」

ヨハネ 10,14



「わたしは羊飼いである。
わたしは自分の羊を知っており
羊もわたしを知っている。」

(ヨハネ 
10,14

良い牧者であるキリストの絵

わたしが来たのは、
羊が命を受けるため、しかも豊かにうけるためである。

(ヨハネ私10,10




よい羊飼いは
「失った羊を見つけたら、
喜んでその羊を担いで、
家に帰ります」

(ルカ15,5-6


         聖イレネオ司教が(2世紀)
   主の祈り(Pater Noster)の最初の言葉を使って
     信仰のシンボルを作りました。
   言葉を上、下、縦、横、 どんな方向からも
        読むことが出来ます。
 S A T O R
  : 種を蒔く人(キリスト)
 A R E P O : 犂 (十字架 )    
 T E N E T  : 掴む (掴む)      
 O P E R A: 業 (いけにえ)
 R O T A S  : 輪 (世界の運命)

     「種を蒔く人は犂を手に持ち 
         自分の業によって
  運命の輪をしっかり掴んでいる。」と読みます。 
  即ち、「キリストは 十字架のいけにえによって
  死から全人類を救った。」と言う意味です。
    T
    E  
  TENETという言葉が自然に十字架を現わします。
    E
    T



左にある
ローマのカタコンベの絵は
神の小羊イエスが
パンの増加を実現したことを
表しています。

上の絵は
イエス・キリスト(XとP)は

命のパンであること(パンの増加の籠)
そして、人の魂は(鳩)
殉教の証によって
キリストに結ばれて(Aの飢えにあるX)
永遠お命に初めに生きている
ことを表しています。


この絵も
5000人(マルコ6,30-44

4000(マルコ8,1-10)のために
イエスはパンと魚を
増加したことを
思い起こさせます。







鳩は、キリスト者の魂を表し、
特に試練と迫害の時に、死ぬまで信仰を
守った人の魂を表します。

「仕掛けられた網から逃れる鳥のように、
わたしたちの魂は逃れ出た」(詩篇
124,7

ぶどう、オリーブの枝、シュロの枝などは、
キリスト者は殉教者であることを表します。

「あなたがたが信仰の実りとして
魂の救いを受けているからです。」
(1ペトロ
1,9

水の入ったカップ、又は水の入った樽
(参照:次の項の絵)は、
キリストがキリスト者たちに豊かに与える
罪の赦し、
永遠の憩い、救いの喜び、

終わりのない幸せを表します。

(左)キリストは、二人の殉教者に、
勝利の冠(左の絵)、又は永遠の命
(樽:右下の絵)を差し上げています。








この墓碑銘の絵が示すことは次のことです
フォスティニアという女性は
屠られた羊(キリスト)の内に
希望[錨]を置いたので、
殉教の冠[シュロの枝]を受けました


この墓のユダヤ人の絵とギリシャ語の墓碑銘が
示すことは
次の通りです

「ここで、フォスティナは平和の内に憩います」
この女性は強い証しを与えながら[角]
ユダヤの信仰(
7枝の燭台)
の守るために、殉教しました(シュロの枝)



(左)火の鳥、不死鳥
フェニックスは
キリストの復活のシンボルです。

(右)神に向かって
 生涯にわたって 祈った人は
この世を去ってから
約束された永遠の命を受けています。






またクジャクも同じ意味を現します
栄光の豊かさで養われている二匹のクジャクは
神に生きる幸せを伝えます。

「神は、食物を施して、あなた方の心を
喜びで満たしてくださる」
(使徒14,17

神に揺るぎない信頼を示して、迫害の時でも、
執り成しをし、、絶えず祈り続けた人は
この世を去った後
約束された永遠の命を受けています。

「私は 復活であり、命である。。
私を信じる者は、死んでも生きる。
(ヨハネ 11,25」
                
 

    
    
ラムセス2世  キリスト紀元前1292年  任命式の祈り

   主よ、人生の夜明けに、王の位についた時、私は真心をこめてあなたに属する決心をした:まっすぐに歩けばいいんだ!と思った。

   が、空に輝く星が 色々な可能な小道を照らしているのを知らなかった。 星が、生きた水、あふれる泉の水の中で自分の姿を映すのを知ったのに、死んだ水の上にも輝いているのを全く知らなかった。

  私は曲がりくねった道、回り道、人生の袋小路、ジグザグにまがって茨の中に入り込む小道、とても通れない道などを本当に知らなかった。 が、事実を言うと 旅人である私の人間としての存在の状況は、このように 彷徨える人生、絶えず迷い続ける人生なのだ。

  主よ、渇きを冷やす泉を発見するように恵を下さい。

  池の死んだ水を好まないように恵みをください。

  かえって、生きた水の新鮮な味を失わないようにしてください。

  時々迷い込む危険に立ち向かう知恵を与えてください。
  なぜなら、慎重すぎる人が臆病なものに変化し、同時に、自分の才能を土にうずめる誘惑に陥るから。 また、勇気のある人々が、無謀な自信をもって どこにも通じない道に迷い込み、途方に暮れます。

  主よ、いつもそばに居てください。私が冒険の道を歩み、柔らかいコケを踏みながら深い淵に近寄るからです。いつも、一緒に、絶えず そばに居てください、主よ。生きた水の泉を熱烈に探している私の歩みを支えてください。主よ、私と共にいるあなたの現存のために 感謝と賛美を奉げます!

    確かに、遠く離れた人々が戻ってくる。

    海に沈んだ人々も 戻ってくる。

    飢えていた人々が 満腹で満たされ、これから 大変よろこぶ。

    渇いていた人々が 完全にいやされる。

    裸で生活していた人々は 今白い服を着ている。

    汚い服を着ていた人々が 今綺麗な衣を身に着けている。

    刑務所に閉じ込められた人々が 今 開放された。

    縛られた人も 今は自由の身となった。

    そして、国の全ての町が平和の町となる。

        


ステンドグラスの色のシンボル

 黄: 父なる神の栄光、神聖、聖性 、金、霊的な豊かさ、天国の喜び、永遠の幸せ。

 赤: 聖霊、愛、王権、火、同情、憐憫、命、流された血、受難、殉教、叙階と堅信の秘跡、証言。

 オレンジ: 祈りの実り、あふれる恵、信仰生活、心の寛大さ、慈しみ、霊的な多産性、結婚の秘跡、夫婦の幸せ。

 青 薄い色: 洗礼の秘跡、水、純潔、清さ、忠実、天の国。

 青 濃い色: キリストの人間性、信仰、謙遜、福音的な貧しさ、従順、委ね、放棄。

 紫 薄い色: 病者と許しの秘跡、真実、節制、施し、忍耐、改心、犠牲、寂しさ、やもめ暮らし。

 紫 濃い色: キリストの権能、王の権威、高い位、苦しみ、迫害、償い、悲嘆と後悔。

 緑 薄い色: エデンの園、春、新鮮、新生、青春、霊的な成長。

 緑 濃い色: 希望、信頼、若返り、生まれ変わる、誓願の実践、霊的な生き方。

 白: 光、天使の世界、聖体の秘跡、喜び、復活、誕生、聖化、変容、神の知恵、キリストへの知識、聖霊の賢明さ。

 灰色: キリストの審判、死者の復活。誘惑と罪に対する戦い、隠遁生活、人間の弱さ。

 ピンク: 物質的な貧しさ、乏しい、素朴な生活、神への飢えと渇き、正しさ、平和な心。


 黒: 暗闇の世界 および罪と悪と死に対するキリストの勝利。



                    私たちは矛盾の名人です


     私たちが古いものと新しいものとを調停するのが好きです。 自分の持っている細々とした つまらない物を失わずに神のたまものを受けて生きようとします。 日常生活のやかましい雰囲気を今、拒否せずに、遠慮なく神に内面的な静かさを要求しがちです。 自分の立てた計画を捨てずに 神の救いの計画に自分の心を 無理に、また無駄に開こうとします。 あらゆる武器を破壊せずに 神の平和を望み続けるのです。 自分の過ちを認めずに又人の過ちを赦さずに 平気で 和解の恵みを神に願い続けます。 自分の所有物を自分の手から逃さないかと恐れながら もっと兄弟的な世界を作ろうとします。 私たちは 古い人を捨てずに、新しい人になれると思いがちです。 その代価を払わずに 私たちは聖化に向かって走ろうとしています。 自分の狭い心を変えずに 神の国に入りたいと望むのです。 このように、古いものと新しいものとを調停することで 結局私たちは自分の人生の布を引き裂くに違いありません。 主イエスが来たのは 人々の古いものやがらくたに つぎを当てるためではなく、あるいは人々のいいがげんな幸せとやせっぽちな幸福をさっと修理するためでもなく、むしろ全てを新たにするために来ました。 矛盾過ぎる私たちが 福音化されますように心から願って 改心の恵みを完全に身につけましょう。
                  (マタイ916-17)グイノ神父


           


                  安全第一の社会を信じるとは

     先日フランスの出身教区のニュースレターにこんなことが書いてあった。「1950?60年代に生まれたあなたはどうやって生き残れたか。今あのころを思い出すと,よく生きていたと不思議に思わないか。 車だって 安全ベルトやエアーバッグはなかった。危険を意識せず後ろの席で ガヤガヤと笑って遊んでいたのではないか。 ヘルメットなしで自転車に乗っていた。殺菌されたペットボトルのミネラルウオターではなく,水まきホースか泉から直接に水を飲んでいた。夜まで家に戻るという条件なら、外で 遊び続けても ゆるされていた。 携帯がなかったので 親など 子供がどこにいるか 何をしているか 知るすべがなかったって信じられないね。 喧嘩などしてかすり傷だらけになっても,責任は他人になすり付けずに 自分自身が悪かったということになっていた。 甘いものやバターたっぷりの薄切りのパンを いくらかき込んでも肥満の心配でだれも悩んでいなかった。 いつも外で運動していたから 黴菌がうつるのを恐れなくても,同じオレンジュースのボトルから2?3人で飲んでいた。 あのころプレーステーションとか 任天堂64とか ビデオゲームやポータブル,インターネットのチャットもなかったが,しかし 本当の友達数人がいた! 予告しなくても友達の家に飛び込んで,彼を遊びに引っ張り出しても 大丈夫だった。 外!本当に,危険に満ちた外だった。 しかも監視なしで! 隣の空き地で仲間が集まってサッカーの試合をやる時は,自分が選抜されなかったからといって,別に心の深い傷があったのではない。 たまたま、学校で自分が留年となった時でも,カウンセリングに連れて行かれなくても,ことが済んでいた。 あのころ、私たちには 自由があり,失敗も成功もあり,宿題と課題があったがこれらのすべてを当然と受け止めて,抱えながら生活していた。 今考えてみれば よく生き残れた,よく成長できたと思うね。 私たちのことは 今の世代からすると,とんでもない退屈な人生を送っていたと思われるだろう。 そうかもしれないが すごく幸せだったと思わないか?」

 
    これを読んでヨーロッパで日本並みの衛生の念が深まり,また「危ない」,「やめなさい」と我が子の安全で神経質になって言う過保護のお母さんは 日本だけでなく我が国にも増えたというふうに思った。 世界中に広まっている,財産と生命のすべてが保証されている保険万能社会にあって,安全というものの価値は最大の善とされる傾向がある。 安全の保証政策や実地は ある意味で 大きな進歩と言いえるが,あまりにも危険を恐れ,安全にこだわるなら,人々はがんじがらめになって身動きしなくなってしまうおそれがある。 危ないからといって 外の遊びがゆるされていない子供って,なんて気の毒だとも思う。 チャレンジがゆるされず,様々な発達の可能性が閉ざされてしまう結果になるから。 そして安全,安全といって,財産や生命が保証されても,魂の命はかならずしも保証されるとはいえない。 リスクに身を曝さずには,人間として充実して生きるということがありえるか。いつも身の安全を気にし,リスクの可能性を完全に排除しようとするならば,文化や経済を初め,人間の活動には発展性がなくなる。起業精神か冒険精神が生きていなければ,社会は停滞してしまう。信仰もそうではないだろうか。 信仰は賭けだとパスカルが言った。 目に見えない神の手にすべてをゆだね,自分自身をかけるのは確かに危険な行為。 目に見える世界の常識に安住したほうが無難かもしれない。 だがこの賭けを避け,安全地帯ばかりにとどまろうとするなら,自分自身の命を失ってしまうかもしれない。「自分の命を守ろうとする人は,それを失い,それを失う人は,かえって保つであろう」。(ルカ17,33)このイエスの言葉には 福音のもっとも考えさせるパラドクスがあるような気がする。

    

                トランプを使って 祈りを学びましょう!

        あらゆるものが私たちを神へ向かうように誘います

このトランプから 唯一の神だけが おられることを 思い起こしましょう!
2の数は 旧約聖書と新約聖書を読むように 語ります
3は 何よりも 三位一体の神の存在を 叫ぶ数です
4人の福音家、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが 頭に浮かびます
十字架の上で 受けられたキリストの5つの傷に 心が痛みます
神は 宇宙万物の創造に 六日間を 振り分けられました
そして、 七日目は 安息日、主の日です。 真心から 祝いましょう!
キリストが人々に語られた 八つの幸せの言葉、山上の説教を心に思い巡らしましょう
この数で らい病が清められたのに キリストのもとへ 
感謝に戻らなかった 9人のらい病人を 思い出します
私たちが守るように モーゼに与えられた 神の10戒が 自然に 心にわいて来ます
このカードは キリストが 神から遣わさらた「苦しむ僕」「メシア」「救い主」
「あがない主」であることを 黙想するように 呼びかけています
もちろん、これは神の母 天と地の后、罪人である私達のために 
絶えず取り成し、祈る方 マリアの神秘を 心に思うように 強く招きます
あわれみにあふれ、いつくしみ深く、怒るに遅い、全能の神、天におられる父なる神に
感謝と賛美を捧げましょう!
このカードから 悪魔の誘惑に陥らないように、神に反することを 
全て退けるように、しっかりと 覚えましょう!
同じ数の四つのカードは 四つの季節、東、西、南、北の四方向を示します。
 私たちはこのカードから いつも、どこでも、絶えず、
福音を伝える使命を果たすように 励まされます
12人が集まって 神を 賛美するために 12ヶ月があると 教えています
13枚のカードは 月の13の位相に基づいて作られ、13ヶ月のあるユダヤ教の
カレンダーを連想します。 キリストも このユダヤ世界で 成長されました
トランプ全部の数 52枚は 神に感謝しよと 人々が 52週間使うように 勧めています
トランプの全てのカードの数を数えると 365点になります。 
私たちは 365日間、つまり一年間、毎日、神に 愛を返すことが できます
 
黒と赤の色は 私たちが 昼も、夜も、起きている時も、眠っている時も、
いつも信仰のうちに 目覚めるように 教えています
アーメン  アレルヤ



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