主の祈り
序
私たちは皆よく聞くには相手をしっかりと見る。 だからキリストが光りについて話す時、どの様に聞くかも話し、ルカ8章18節には「どの様に聞くかよく注意しなさい」と書かれている。
弟子達はイエスの祈り方、祈りの姿を見、更に彼らはどの様に祈ったらよいかを知る為にキリストに聞こうとする。 イエスは前の箇所で「光は秘められたもの、秘密を明らかにする」といわれ、ご自分の弟子たちに今まで父なる神と自分の間にあった秘密をゆっくり啓示しようとしているが、 自分自身のすべての秘密、自分の存在の秘密、神のついての最高の打ち明け話であると同時に、弟子達が彼とともに神の神的な美しさに入るように誘う。 ルカ8章17節で、「隠れているもので顕わにならないものはなく、秘められたもので人に知られず、公にならないものはない。」と述べられ、どう聞くべきかに注意しなさいと言われる。 イエスは御父をイエスだけがお出来になる方法で啓示されるが、それには彼の愛に留まっていなければならず、彼から離れてはならない。 ヨハネ15章4,5,15節で「私に繋がっていなさい。 私もあなたに繋がっている。・・・私を離れてはあなた方はなにも出来ない。・・・私はあなた方を友と呼ぶ。 私が父から聞いた事をすべてあなた方に知らせたからである。」と述べられており、キリストは秘められたものは何時か公になると言われる。主の祈りがまさにそれである。
ルカ11章1節で弟子達は主に「主よ、洗礼者ヨハネが自分の弟子に教えた様に私たちにも祈りを教えてください」と願うが、彼らにとってその願いは自分がキリストの弟子だという特別な祈り方を受ける事であった。 つまりキリストの後を歩もうとしている人がこの祈りを唱えると、自分がキリストに属しているという明白な印になると思った。 しかしイエスはこの種類の祈りを望まず、 マタイ6章6、7節で「あなたは祈りたい時、自分の最も秘められた部屋に入ってドアに鍵をかけ、ここで秘密の内に父に祈りなさい」といっている。 だから弟子達の公に祈りたい望みと並行して、キリストの考えでは 祈りたい時には 秘密の内に祈るという意見がある。
しかしながらキリストは弟子達の望みを拒否せず、むしろ自分の存在の秘密のすべてを彼らに引き渡そうとし、彼らが皆、神にむかって父と呼びかけるように教えようとする。 丁度キリストだけがその名を言うように・・・ これは「愛に留まりなさい。 私が父を知っているように、あなたも同じ愛に生きる知識を受けるように」ということと関係がある。 キリストだけが神にむかって「アッバ、父よ」という言い方を知っており、その祈り方には特権があって、これを祈る人が特別な権能、力、責任を受け、キリストの最も深い生き方と一瞬の内に結ばれる。 ヨハネ10章14,15節で、「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。 父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」と言われている。
父とイエス
キリストが聖霊によってある時祈った。 「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべての事は父から私に任せられています。 父のほかに、子がどういうものであるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには誰もいません。」(ルカ10章21、22節) ここでイエスは父との唯一の関係、透き通った愛の関係に生きている事を教える。 父が彼にすべてを完全に与え、彼は父からすべてを受けた。 すべて、つまり彼は、神の愛の計画、救いの計画を使命として告げ知らせると同時に、自分のすべて、つまり彼の神の子としての存在をも示そうとしている。 イエスは特別な知識によって、父なる神しか知らない父のことを知っており、そしてキリストは同じ様に、子にしか属さない妨げのない知識によって自分の父を深く知っている。 ヨハネ15章には「父が私を知っているように私も父を知っている」と書かれているが、もし神がこれを啓示しなかったら、もしキリストがこれを伝えなかったら、私たちには神の神秘であろうと、キリストの神秘であろうと到底理解できない。
そこでキリストが教える祈りによって私たちは一歩、一歩その神秘の中にはいる。 しかしキリストの祈りが教えたように私たちがとても小さく謙遜に留まらなければ、天国の秘密を受けられない。 天国、神の国の秘密とはその名が聖であり、父の意志、み旨、神の支配が行われる事である。 父と子を知る事によって私たちは神学的な知識を受けるのではなく、この啓示を受けとめる人を圧迫するすべてのものから解放される。 「重荷の下に打ち砕かれている人は、私の所に来なさい。 休ませてあげよう」と言う言葉が聖書に書かれているが、神への知識の中には人間の解放の秘密があり、子のように神を愛する事によって、人間は誰であろうと神の子の自由に生まれ変わり、父の名の中に神の御姿に象って造られた人の名も書かれている。
父と子の知識とは、単なる知識ではなくて人間の解放が含まれており、人間は自分が子であると分かると自由になる。 すでに言った様に、父なる神の名の中には神に似ている人の名が書かれていて、キリストの祈りとともに私たちは救いの時に入り、エレミヤの預言がここに実現される。
「私は思っていた。『子らの中でも、お前にはなにをしようか。お前に望ましい土地、あらゆる国の中で最も麗しい地を継がせよう』と。 そして思った。『わが父と、お前は私を呼んでいる。私から離れる事はあるまい』と。」(エレミヤ3章19節)
つまり、お前を私の子とする為に何をしようか。 一番綺麗で豊かな国を与えようか。 あなたが私を父と呼んで欲しい。 そうしたらあなたは二度と私から離れない、と言う言葉であって、このエレミヤの預言の中で主の祈りが実現されている。