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                           子供たちの言葉 -神の知恵。。。どうぞこちらへ


             


私の思いは、あなたたちの思いと異なると主は言われる。 イザヤ55,8

人間の慈しみは、

隣人にしか及ばないが、

主の慈しみは、

すべての人に及ぶ


シラ書18,13
私は神であり、

人間ではない。

お前たちのうちにあって

聖なるもの


ホセア書11,9

       

     イスラエル人が 神を父と母の名で呼んだほど、神は 命に満ちあふれている 。 神のあわれみの愛を表わすために用いられる 「ラハミーム」 という ヘブライ語は、母の胎内を意味し, 母がその子のために覚える内臓の鼓動を 連想させる 。 神は、母のように人間を慰め、守り、育て、教え導く 。 神の慈愛は、父や母のそれにたとえられる 。 事実、神は、父や母の愛情を超える慈しみのゆえに、自分の姿に似せて 人間を創造する、神の慈しみは 無条件かつ無償であり、つねに いつも目ざめている 。  それは 広大無辺であり、無尽蔵であり、いつまでも 変わることがない 。

    すべての人に例外なしに及ぶが、特に あまり恵まれない人や孤児に示される 。 また神の慈しみは、忠実な信仰者たちを死後の世界においても 一緒にすることができる 。 なにものも とどめることのできないこの愛は、あらゆる種類の恵み - 命の賜物 - 救い- 解放 - 慰めを通して、又 神の民を教育する試練を通して さえ 現われる 。 しかし、神の無限の慈しみ、つまり憐れみを なによりも よく表わすのは、「ゆるし」である 。


                             
          あなたは、 人が自分の子を訓練するように、 あなたの神,
                      主があなたを訓練されることを心に留めなさい 。   申命記8,5
                                                                                         

     「主よ、私を憐れんでください!」 「神の愛は永遠!」 という叫びや感謝の表明は 聖書の中で絶えることなく繰り返される 。  神は、罪を犯した民を罰すべきであっても、民が 悲惨の淵から 自分に向かって叫ぶや否や、同情で心はいっぱいになる 。 このことは、救済史全体を通して実証される 。  たとえば士師記には、まず 民の不忠実に対して 怒りを燃えあがらせて罰をくだし、次に 救いを求める民を憐れんで 士師を送る、という神の二つの行為が 韻律のように繰り返し述べられている (士師記 2,18)。 また 預言者たちは、両極端にゆれ動く神の態度を明らかにする 。  ホセアは、神の哀れみを啓示して、たとえ神が もはや イスラエルを憐れまずこれを罰しようと 決心したとしても、神の心はためらい、神は ますます憐れみ深くなり、けっして 燃えあがる怒りのままに 罰するようなことはないと告げる (ホセア11,8-9)。

   「エフライムは私の大事な子、特に愛する子である 。  私は 彼のことを語るたびに、深く彼を思わずにはいられない 。  それゆえ、私の心は 彼のためにわななき、私は 彼を憐れまざるをえない」 (エレミヤ31,20とイザヤ49,14-15)。  神が、罪から生じる人間の悲惨を見て これほどまでに心を動かすのは、ひとえに、罪びとが自分のもとへ帰ってくること、つまり 悔い改めることを 望んでいるからにほかならない 。  「神にたち返れ、神は豊かに赦してくださるから」 (イザヤ55,7)。  「あなたのようにとがを赦し、罪を見すごす神が、他にあるだろうか、あなたは怒りを いつまでも持ち続けず 慈しみを喜びとされる 。神はこのように、実際に「憐れみ深い父」と呼ばれるにふさわしい。


                                   

神の慈愛は、 イエス・キリストのうちに現われた 。 テトス3,4-7

 
    慈しみ深い父なる神は、イエスのうちに自らを啓示し、かつ、彼を復活させて信仰者の復活を保証することにより、その慈しみに関する 最高の証しを行う 。  事実、イエスは、神の慈しみに浴していた だけではなく、この慈愛を 自分のものとして人々の上に注ぐ 。  かつて 神が 哀れなイスラエルの民に同情したように、彼も パンや慰めや体の快復や教え導きや救いを求めている群衆を見て 憐れみの情を禁じえない 。 病者,盲人とか、子や兄弟をなくして悲しむ人々など、恵まれない人々に対しては 同情に身を震わせる 。 父のそれと同じく飽くことをしらない イエスの慈しみは、罪に勝利を占め、世の中で もっとも不幸な者である罪びとに、しかも 自分を十字架につけた者にも 罪の赦しを与えるまで至る 。

   イエスは、このように自らの行動を通して 神の憐れみと慈愛を現わしてゆくが、それは 父なる神の憐れみと慈愛の特徴を 永久に描きとどめたかったからである 。  ファリザイ派の人々の狭量な考えによって 神の国から閉めだされていた罪びとらに、イエスは 無限の憐れみのよい知らせ「福音」を述べ伝える 。  また、イエスが弟子たちに与える命令、すなわち 「天の父が完全であるように、あなたがたも 完全なものとなりなさい」 と 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも 憐れみ深いものとなりなさい」 という命令は 次のことを明らかにする 。

    憐れみは、天の国にはいるための根本条件である 。  信仰者は、困っている兄弟を見て 憐れみの心を閉ざすようなことが あってはならない 。  神の慈愛は、自ら憐れみを実行する者のうちにしか留まらないからである (1ヨハネ3,17)。  したがって、各自は 自分の隣人に対して どのような憐れみを実践したかによって 裁かれるであろう 。  この憐れみは、意識していないかもしれないが、隣人のなかに住むキリスト自身に対してなされたものなのである 。 「はっきり言っておく, このもっとも小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」 (マタイ25,45) 

                         

  

                 



神は あなたの方へ
 身をかがめられる
子供の上に
 身をかがめる母親のように

神は あなたを御胸に 
だきしめたいただ単に 
あなたにほほえんでほしいから

神は あなたに
思う存分祝福をあたえたい
家族を喜ばせる父親のように

神は あなたの永遠の幸せを
 のぞまれる
ただ単に あなたにずっと
ほほえんでほしいから

神は あなたを慰め 許したい
神の愛の総力をあげて
神は あなたの涙の最後の
一滴までも ぬぐいたい
ただ単に あなたに
感謝にあふれて
 ほほえんでほしいから



(神の栄光を歌う真珠の首飾り
 グイノ神父作)より


我が神よ あなたは
 生きる水の泉です
私をたえず 新たにして下さる
あなたのうちに 生命を見出し
あなたのうちに 
生きることを学びます

我が神よ
 あなたは 真理の御言葉です
私の砂漠を 花ざかりにして下さる
あなたのうちに
 愛されていることを 発見し
真理のうちに
 あなたを愛することを学びます

我が神よ あなたは 聖なる霊です
恵みの油を 私に注いで下さる
あなたのうちに 私は輝き出し
あなたの御顔を 
反映することを学びます



(神の栄光を歌う真珠の首飾り 
グイノ神父作)より

                       あなたは どう答えますか?

   「何をしているのですか?」と聞かれた 3人の石きり職人のストーリーをご存知でしょうか? 最初の人は、たがねをつかんで、顔も上げずに「僕は石を粉粉する!と不平を言って答えました。 次の職人は、頭を挙げ、尋ねる人をびっくりして見つめながら「僕は、生活費をかせぐために仕事をしている!」と返事しました。 3番目の職人は立ち上がって あふれる喜びに顔を輝かせながら、「僕は、どれほどの年代が立っても 負けることのない美しいカテドラル(大聖堂)を作っている」と答えました。 そしてすぐ、熱心に仕事に戻りました

    「どうしてキリスト者になりましたか? 何のために?」と質問されるなら、どのように答えるでしょうか? きっと 数え切れない多くの信者は 「困ったな! キリストを信じますから、それで十分ではないですか!」と答えるでしょう。 実は、彼ら あんまり福音的でない普段生き方に縛られているので、キリストと出会おう、キリストを知ろう、また、自分自身をキリストとしっかり結ぼうとできない人々です。 このようなキリスト者が 決して 信仰の喜びを味わう事ができません。

   他の大勢の信者は 「天国へ行きたいから キリスト者になりました」とか、「信仰を忠実に守りたいから 教会へきちんと行きます」とか、「若い時からカトリックの信仰のうちに育てたからです」と答えるに違いありません。 彼らは正直な人ですが 習慣的な、あるいは、伝統的な信者ですので、教会へ行く楽しみを味わい 自己満足で 別に自分たちの信仰生活を変えるつもりがありません! このようなキリスト者は 自分一人だけに 都合が良いような信仰に留まっているのです。

   さて、残っている信者は、あいにく、数が少ないですが 「聖人になりたい、神のために命を捧げたい、イエスのように人々を深く愛したい、主の救いを できるだけ 沢山の人々に伝えたい、教会を生き生きさせたい」と答えるでしょう。 彼らは、自分たちのために生きるのではなく、かえって自分自身を捨て、キリストと一致しながら、キリストによって生きたい人です。 このような信者の証しは どれほどの年代が立っても 負けることのない 美しい信仰を作り上げます

    さて「あなたは一体どうしてキリスト者になりましたか?」正直に答えてください!
               
       目覚めていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
               1コリント 16,13


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