司祭とは 一体どんな人でしょう?

  「司祭は 神に召されて、人々のために働き,教会のためにその一生をささげる。 そのために必要な恵みをいただいているとしても、彼らはそれを、私たちと同じ弱い人間の器に受けた者である。」 教皇パウロ6世


司祭の約束の更新

   神と人に仕えるため、叙階を受けられた 兄弟の皆さん,今日は 主キリストが、その司祭職を使徒たちに与え、又、私たちにも与えてくださいましたことを 記念する日です。私たち司祭は、喜びを持って受けた 神の言葉を述べ伝え、行いをもって あかしするために使わされています。 神の民を教え導き、感謝の祭儀をささげ、主の食事で養います。 こうして、全ての人がキリストにおいて成長し、一つになるのです。 神と教会に生涯 奉仕する使命を受けました。 私たちの叙階の日に決意を新たにして 神に祈りましょう。

 「全能 永遠の神よ、御子キリスト選ばれた私たち司祭が あなたの言葉と秘蹟によって 人々に仕え、与えられた使命を、恵みによって果たすことが出来ますように。 私たちの主イエス・キリストによって。 アーメン。」

                  



ダハウ収容所の入り口
「苦労は自由にさせる」


Karl Leisner 1915-1945
カール・レイスナー 神学生時代


司祭たちのバラック内
寝る場所

ダハウ 死の収容所、愛の収容所。

    打ち明けたい物語は(Dachau)ダハウの死の収容所で起こった実話です。

    ダハウとはドイツのミュンヘン(Munich)から30キロ位離れた小都市で 第二次世界大戦中 アウシュビッツ(Auschwitz)と並んで、強制収容所と皆殺しで 有名になった所です。

    1944年も終わろうとする頃,捕虜になった司祭たちの収容所の26番目のバラックにおいて一つの信じられないような儀式が行われました。 既に助祭になっていた一人のドイツ人の神学生が (囚人番号:22356)肺結核で死に直面していました。 友人である何人かの司祭たちは 気狂いじみた夢を抱きました。 それは、この神学生が死ぬ前に 叙階させようという夢でした。 幸いなことでしたが この死の収容所の囚人の中に一人のフランス人の司教がいました。 そうして,密かにこの気狂いじみた夢は 次々と 準備されていたのです。 一片の木を切って、司教の杖と十字架を作り、司祭の服として少しばかりの紫の布地を探し出してストラを作り、又、ミュンヘンのドイツ人の司祭は 命がけでこっそりと叙階式のための必要な聖油を届けてさせました。 このようにして、1944年12月18日の夜、即ち 典礼では「喜びの日曜日」に当たって、ナチス新兵隊たちに隠れて、唯一の叙階式が行われました。

 
  フランス人の(Piguet)ピゲ司教は ドイツ人の(Karl Leisner)カール・レイスナーを司祭に叙階しました。 不思議なことですが この儀式の間中 誰にも 特に 看守たちにこの出来事が悟られないように、収容されていた一人のユダヤ人はウヴァイオリンで流行の曲を演奏していました。

    新司祭は(1944年12月26日)彼にとって最初であり、又、最後ともなった  ミサを 秘密理に捧げました。 カール・レイスナー神父は 数日後死にました。 彼が残した手帳には 死ぬ前に 「愛・償い」書き記されていました。 というのは、レイスナー神父は ナチスの憎しみと残虐を償うために 愛の行いとして自分自身の命と その短い司祭職を神に捧げました。 1944年のクリスマスの前の日曜日、この「喜びの日曜日」と言われているその日に 憲兵たちに囲まれて 一人のフランス人の司教が 一人のユダヤ人がヴァオリンを演奏している間に死の収容所で 一人のドイツ人の神学生を叙階している…何という考えられない愛の一致の素晴らしい印でしょう! これらの囚人を占めていた神秘は キリストへの 愛と信仰であり、且つ隣人への愛と信頼ではなかったでしょうか?

   ナチスの滅びの力に引き渡され、無一物になった カール・レイスナー神父は 自分の死以外に捧げるものは何もありませんでした。 外面的に見れば、彼の叙階式は 無意味です。 けれども、彼が捧げた唯一つだけのミサを通して カール・レイスナー神父は キリストの愛の呼びかけに全身を尽くして答えようとしました。 ダハウの残虐さの中に閉じ込められていた彼は 死の門を前にして、このように自由に祈ったに違いありません。 「主よ、私は ここにおります。 あなたの愛の証人として。 命がけで 私を囲んでいる友人たちとともにあなたに感謝し、信仰と隣人愛の実践の内に あなたに奉仕する司祭となりました。 主よ、私は死んでいても、生きていても あなたの愛を証しする永遠の司祭です。 このダハウの収容所の真只中にあって、愛の印として、そして償いの印として 私は命ある限りあなたの愛に、又隣人愛に 私の全生涯を捧げましょう。 恐怖のあふれているここでこそ いつか更に多くの愛があふれるようになると私は固く信じ、希望のないところに希望します。」と。

    さて、戦争が終わってから しばらく後 1961年1月のある朝 カルメル会の一人の修道女が レイスナー神父の残さした手帳にある 「愛・償い」と言う霊的な遺言を ダハウの収容所において実現しようと 考えました。 この死の収容所の同じ敷地に、同じ形のバラックに、今、20名あまりのカルメル会の修道女が 身を置いています。 ただ、戦争中のバラックの建築線を少々変えただけです。 即ち、バラックは十字架の形になっています。 その入り口は 収容所の機関銃を手にした ナチス憲兵たちの昔の見張り塔であります。 又、入り口の扉の上に ナチスの 「苦労は自由にさせる」と言う格言の代わりに「御血のカルメル会」と書かれています。

   12年の間に 種々の国から追放され、捕虜とされ、奴隷にされた 少なくとも3万2千人の血が流されたこの所で 今日 人類に対する罪のあがないのために 毎日、ミサをとおして、キリストの受難の記念が行われています。 又、この同じ場所で 種々の国から集まってきたカルメル会の修道女が この恐怖の土地であったその場所を 奉献と愛の場所に変化するために 自ら望んで、償いとして囚われ人となることを選び、清貧観想生活を送っています。 昨日 囚人に 処刑を告げた鐘は 今日 修道女に 祈りの時 あるいは 仕事の時を告げる同じ鐘です。 死刑の宣告の鐘は 今愛と償いのために鳴っています。 このように滅びや残虐や憎しみの満ちていた このダハウの収容所の中で 無償の愛、罪の許し、限りのない慈しみがあふれています。

 カール・レイスナー神父は1996年6月22日に列福されました。又、カルメル会の中には1945年12月18日の叙階式のために作って、使われた道具が展示されています。

 
   この実話が 私たちが皆 平和と和解の道を歩むように 教えているのではないでしょうか? テロ、差別、ねたみ、暴力、残虐の波を絶えず浴びている 今の私たちの世代は レイスナー神父の遺言のメッセージを もう一度 発再見して、実現するべきのではないでしょうか? 愛、許し、和解、お互いの理解と支えあい、あるいは助け合い、慰めあいの明白な動力がなければ 疑いもなく、いつか、この世代は ナチス時代ような新しいの恐れに覆われるでしょう!




ダハウ収容所の見張りの塔


ダハウのカルメル会


処刑を告げた鐘と
死刑が行われた場所場

  

ダハウの御血のカルメル会

  

  司祭の礼拝の勤めについて、1957年に亡くなったTerrier(テリエ)司教の書いたこの小さな黙想を 全ての司祭たちに委ねます。

礼拝する司祭、

あなたへ。



  礼拝する司祭、あなたへ。


    おお司祭、あなたはキリスト御自身から、彼の司祭の魂、その司祭の心、彼の司祭の態度や動作を全部、キリストの司祭としての権能を 完全に 受け留めました。 キリストの司祭職をあらゆる面で あなたは受け取りました。 あなたはこんな人です!

    今 あなたは ひざまずいて、礼拝の中に入ろうとしています。 その礼拝は 人間の礼拝、司祭の礼拝、司祭であるキリスト御自身の礼拝であり…この3つの態度は 確かに あなたの内に一つのものとなって、離れ離れにすることができません。 あなたは 人間として祈りますが、どうしてもその祈りは 司祭の祈り、司祭であるキリストの祈りになるのです。 ここには 一致の恵みがあります。 キリストと親密なあなたにとって 礼拝することは 自分自身の全てが 神につながっていることを 謙遜に、喜びの内に、信仰の飛躍によって はっきり宣言することです。

    礼拝する司祭は、自分が誰に属するか、又、どこから来たか どこへ行くか示しながら 自分の泉は キリストだと深く味わいたいのです。 例えば 幹の枝が、突然 自分が木の幹につながっていることを感じているのとのと同じように。 又、例えば 太陽の光線が 始めて 太陽を理解することができるのと同じ体験です。又、万一 ただひとつの単語が、急にどの唇から出たかを知り、又、 言われたすべての言葉を理解したらと同じことです。 司祭が 礼拝の中に入るとき、パウロの「私の人生はキリストと共に、神の内に隠されている」(コロサイ 3,3)、という言葉の意味を理解し、そうしてそれを体験して生きるようになります。

  人間の礼拝

司祭、あなたの人間性全ては 既に、神から出た光線のようなものではないでしょうか。 あなたの存在とは 神の口から出て来た 生きたみ御言葉、神の命によって養われた枝のようなものではないでしょうか。 あなたの知恵は 何のために役に立つのでしょうか? もし あなたが、完全に、絶対に、神に属しているということをもっと見ないとしたら、もし あなたに与えられた神秘性を探らないとしたら? どうように、あなたの心は何の役に立つでしょうか? もし 神的な愛で愛さないとしたら、もし自分自身が 神に属している状態の豊かさを深く味わわないとしたら?

おお司祭、あなたは 礼拝する人間です。しかも それをはるかに超えているのです。


  司祭の礼拝

    あなたの司祭職 全ては 礼拝になります。 あなたはキリストに属し、キリストと一致しているから、同一させる偉大な礼拝者キリストが確かにあなたによって礼拝します。 主はあなたの内に、あなたによって礼拝しますので ご自分の父であり、あなたの天の父である神を礼拝するために、キリストがあなたの全てが入用です。 あなたを引き寄せ、キリストは あなたに欠けている能力、無力、ひざまずく姿勢、唇が口ごもる言葉、疲れ果てた目、迷っている心の動き、それを全部借りるのです。、キリストは御自分が選んだ司祭の中にある必要なものを全て借りて、あなたに代わって礼拝します。

    おお司祭、耳を傾けて あなたの魂から昇ってくる美しいメロディーをあなたは見分けるでしょうか。 きっと 自分の無茶苦茶な存在の内から、そんなに奇麗な調和が昇ってくるのを感じて、びっくりしたでしょうね!  あなたの心の竪琴で音を出す技術家とは キリストであることに 気がつかなかったのでしょうか?

   おお司祭、キリストが ずっとずっと あなたの内に 自由に 礼拝のシンフォニーを取り出すように彼に任せなさい。

  礼拝とミサ祭儀

    司祭よ、毎日、あなたは祭壇に立っています。 そこで あなたの礼拝の役割の完璧さと充満さが 示されています。 あなたは:「これが私の体、これが私の血である」と言いました。 このようにして、あなたは 自分の本当のアイデンティティ 即ち 礼拝者の使命を果たしている 大司祭のキリストと一つであることを はっきり示し、宣言しました。 今、あなたの手によって キリストを高く揚げてから、その御体と御血を あなたの心の内に入れます。 それを あなたの全生涯の糧にしようとします。しかし、あなたが いただいたこの拝領こそ かえって あなたの全てをキリスト御自身のものと変化します。

 
  確かに、司祭は聖体をいただくが 司祭は聖体になっているのです。 あなたがいただいたキリストと 一つの心、一つの魂、一つの霊となりました。 更に、あがないのいけにえのキリストは、あなた自身が その状態にあずかるようにします。 御自分の奉献の中にあなたを受け入れたキリストは ご自分と共に あなた自身を「礼拝のいけにえ」とします。 それは 父なる神の栄光のためです。 キリストが 「司祭」でありながら 同時に 「いけにえ」であるように、あなたも キリストと一致したので 神の栄光のために 「司祭と生贄」となりました。

   司祭よ、あなたは 毎日、何回も教会の聖櫃の聖体の前にひざまずくために来ることができます。ここに来るたびに、あなたは もう一度 父なる神の方へ導びかれ、愛の飛躍を与える真の礼拝者キリストと出会います。 主の前にへりくだって、あなたの性格、気持ち、疲れ、恐れ、全ての惨めさを委ねることや打ち明けることも出来ます。 そこで キリストは あなたが自由に 委ねたもの、その全ての中から 神を喜ばす永遠の誉れの賛美を引き出すことが出来るのです。 それを考えるだけで、あなたは 平和と安らぎをいただきます。

   おお司祭、聖体の人、あなたは自分の手の中に聖体を持っている時こそ、完全で、幸せな司祭です。 あなたは 聖体の前で、その上又 聖体を通して礼拝する時こそ 「キリストによって、キリストと共に、キリストの内に」 最高の礼拝者であり、霊と真理の内に礼拝する司祭です。


  礼拝の奉仕

   しかし、おお司祭、あなたは礼拝しようと思ったとたん、あなたの内に沢山のものが溢れてきて、 あなたの孤独を滅ぼします。 それらのものは決して邪魔なものではありません。 むしろ、このだらしない様々なイメージや考えやあふれるばかりの想像力などが あなたの手によって神に捧げられるように出てくるのです。 あなたは 地の果てまで遣わされたから、全世界があなたの礼拝の中に入りたいのです。 全世界が 暗闇の中で 創造主である神への道を探し求めています。 神の選ばれた司祭を通して それが出来るのです。 神に捧げられるために 希望に震えている全地は あなたの司祭の聖別された手の中に集まって来ます。ちょうど、ミサの白い聖体と同じように。

   あなたの兄弟姉妹たち、全ての人、不安な人、苦しむ人、神を捜し求めている人は皆 あなたのそばに走り寄ります。 あなたが彼らの声となって、又彼らに代わって、彼らの代表者として 父なる神に 彼らのことを紹介するように 待ち望んでいます。 なぜなら、彼らが まだ はっきり 分からないけれども、あなたの内に 神の全能が働いている事を感じているから。 彼らは 結局、既にキリストの内に集められた全教会です。 まだキリストを知らないけれども 既に キリストの花嫁であり、あなたによって神の栄光を歌いたいのです。 あなたによって 夫であるキリストに 自分の賛美を捧げたいのです。

   だから司祭よ、あなたの司祭職に委ねられた人々の魂のことを考えなさい、あなたは その責任を受けましたから。 特にこの魂、試練の中にいる人の魂、危険と出会う魂、清い魂、完全さへの飢え渇きを持っている魂、愛を示そうとしている魂などを… おお司祭よ、この全ての魂に あなたは どうしても、あなたの声を貸さなければなりません。 それを深く理解しなさい。 司祭よ、あなたは 宇宙的で、普遍的な礼拝者として 神に選ばれた司祭です。 あなたは 神の前で 礼拝する宇宙万物の代表者です。 何という不思議な使命! 何という責任! しかし、同時に 何という喜び! あなたは 数え切れない沢山の人の指揮者となって 神の方へ「世界の礼拝」のシンフォニーをささげていっるからです。


  礼拝と聖化

   ところで、司祭よ、あなたは祈っていた時、又、礼拝していた時、すぐ自分の内に深い傷のようなものをひどく感じなかったでしょうか? 例えば、自分が完璧でない恐ろしさ、自分のうちに深い淵がある という不安とおびえを体験しなかったでしょうか? 時々主の前で、「主よ、私はこんな恐ろしい人です。 あなたに捧げるものは、やはり 私の乏しい状態、自分の惨めさと貧しさしかありません。」というでしょう! 主は、いつも 礼拝する人には 自分の惨めさを必ず啓示されます。 しかし、それは聖化への道の第一歩であり、その出発点です。 自分が欠けているのを見ると、司祭は 神にすぐお願いします:「主よ、助けてください。 あなたの恵みと賜物で 私を満たし、豊かにてください、そうすれば、あなたに捧げたい自分の奉献が もっと豊かになります。 私は貧乏すぎる、豊かにしてください。 私は あなたの助けによって 必ず 自分に対して戦うように 努力することを約束します。 私は 真理と霊のうちに 真の礼拝者となりたいです。 私は 自分のうちにあるもの、全てが あなたを礼拝するように、自分と戦います」と。

  礼拝と活動

   司祭よ、あなたの使命、あなたの活動は一体何でしょうか? それは あなたが礼拝する神のそばに沢山の新しい礼拝者を集める働きではないでしょうか? あなたの司祭職の勤めは 一体何でしょうか? それは 皆が あなたと同じように礼拝者となる という勤めではないでしょうか?

   この世では残念なことにいろんな偶像の前で香が捧げられているようです。 人々は真の神を探さずに、物質的な物事を自分の神とします。 あなたの役割は、司祭よ、その新しい種類の偶像を破壊することです。 盲目となって、もうはや なにも反応をしめさない、偶像に圧迫されている人たちに これらの眩しい偶像は 塵に等しいものだ ということを はっきり示しなさい。 それは 真の神が御自分の礼拝者を もう一度見い出すことが出来るためです。

   しかし それが出来るために、あなたは司祭よ、まず 模範的な礼拝者になりなさい。 礼拝することによって あなたは活動する時間を無駄にするなどと 絶対に考えてはいけません。 夜になると、あなたは もう一度 祭壇の前でひざまずいて 教会の沈黙のうちに あなたが一日中集めた全ての出来事を 唯一の花束として 神に捧げるのではないでしょうか? そして とうとう いつか あなたは人生が終わる時、その人生のたそがれに、一体、おお司祭よ、何をするのでしょうか? 収穫が与える喜びをもって、あなたも 最後の花束、最後の礼拝の花束を 神に捧げるでしょう。  又、あなたも、多分、ある夜、ある司祭のように 聖体の前で礼拝しながら永遠の眠りに入り、神の栄光の光の中に目を覚ますでしょう!




                                        



                     司祭のユーモア

山羊は右側に
                         

    ある日、イエスは群衆に話していた。「審判の日に神は羊と山羊を分け、羊を右に、山羊を左に置くでしょう。」 すると 群衆のうしろから一人の男が声をあげた。

  「とんでもない ぜんぜん違うよ
 イエス、おまえは大工で、おまえの友は 漁師だが、おれは 若い時から 羊と山羊をずっと育てている、それで おまえに尋ねたい。 どうして羊が良くて、山羊が悪いのか?

    
真理を語る聖書によれば、創造主は 全てのものを「よし」とされた。 そこで、言っておきたい… 神は 山羊を 特別に 良いものとして創られた。 なぜか というと 山羊は非常に純粋な動物で、そうして 神がモーゼに教えたように 山羊だけが人間の罪を担って 砂漠のはるか遠くに連れ去ってくれるのだ。  また 神にいけにえとして 捧げられた山羊の血だけが人々の罪の許しを得させるのだ。 このように アブラハムのひとり子イサアクの命は 木の茂みに角をとらわれた一匹の山羊のお陰で救われた。

  山羊は 人々に最初に 飼いならされた家畜だ。 アブラハムの時代に 山羊を飼う仕事は 畑仕事より大切だった。  今でも 山羊は家畜として、至るところで 一番育てやすい動物だ。  山羊は けわしい崖にも のぼれるし、 羊や他の動物が飢えて死んでしまう 荒れた土地でも 山羊は かえって元気に生き残る。 山羊とは 家畜の中で一番丈夫な口と 四つの胃袋を持つ動物なので、かたい草、雑草、いらくさ、あざみ、いばら、かんぼく、きいちご など、 平気で 何でも食べることができる。

 
 山羊は 人々に 肉とミルクを与えてくれ、更に この山羊のミルクは 自然のものでたったひとつ、 質が悪くならないものだ。 山羊の毛は 服になるし、山羊の角は 角笛やトランペットに 使われる。  エルサレムの神殿の典礼のためにも 非常に役に立つ楽器のひとつになっている。 山羊の皮は レザーやテント、太鼓の皮、食物や水やワイン入れの皮袋になる。 山羊の子供は、他の動物とちがって、生まれた時から目を開けていて、 生まれてすぐに 立って歩くことができる。

  農夫や羊飼いたちは皆 誰でも、山羊は 清潔な動物だと知っている。 泥とふんだらけの 牛や羊や豚やにわとりや犬などとは まったく違った動物だ。 いくら 人が山羊の出す臭いが嫌いでも、 他の山羊は そんなことは 平気で気にしない。
 
 
  
山羊は お互いに助け合って生きている。 たとえば 山羊の群れがエサを食べる時、少なくとも 一頭は 敵に備えて 見張りをする。 あるいは 群れから離れようとする一匹のやぎがあれば、すぐ群れの山羊は皆 声を張り上げ呼びかける。 また山羊は人間の友情にこたえて、好きな人には、ミルクを与えるけれど 見知らぬ人には決して与えない。

  
さて、イエス、おまえは ある人々をいやし、また 他の人々の目を治したと聞いている。 けれど おまえが近くにいない時、いったい誰が それができるのか? 山羊ではないか?  ある人の息子が 自分の腕に 焼けどをした時、山羊の骨髄(こつずい)が それを完全に治した。  又、山羊のミルクは 確かに ある人の娘のへんとうせんのはれを治した。 おれのおふくろが 不眠症になった時、彼女の目の下を メス山羊の胆のうでこすって 治してやった。 またおれの ぎりの父の目が悪くなった時、柔らかな山羊のチーズを目に当てると治った。

 イエス、おまえは 多くのことを知っており、おれは おまえの言うことを聞くことがすきで、大部分に賛成だ。  だが、山羊のことで おまえは大変間違っている。 経験豊かな羊飼いであるおれの言うことに耳を傾けて よく聞きなさい。  山羊は 山羊として 神によって創られ、山羊らしくあるように創られ、山羊として、するべきことを するように創られた。

 
おれはイエス、 おまえとここにいる全ての人に はっきり言っておく、おれにとって山羊は 全て 神の右側にいるべきだ、そして、全ての人も 右側に置かれる。 多分 そうだと思う」と。

                                       

    
 

 司祭メナス (Menas) とキリストのイコーン


   イエスは山に登って、これをと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
   そこで、十二人を任命し、使徒と名づけられた。
   彼らを自分のそばに置くためであった。  (マルコ 3,13−14)


 
   今 皆様がご覧になっている 7世紀の初め描かれたこのイコーンは こんにちパリのルーブル美術館に展示されています。 たて65cm、よこ65
cmの 一枚の木の板の上に描かれた絵は コプト、即ちエジプトのキリスト教の芸術の特徴を良く現しています。 このイコーンを祈りの内に描かれた見知らぬ画家は バウイト(Baouit)の修道院の院長 メナス(Menas)と彼を伴い、教え導き、優しく守るキリストを見せようとします。 このイコーンは 特に、司祭の召命とその司祭職について語るのです。 つまりマルコの福音の3章1314節を具体的に示そうとしています。「イエスが 山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。 そこで十二人を任命し、使徒と名づけられた。 彼らを自分のそばに置くためであった」。 友の親しい姿を見せるメナスとキリストが 私たちをじっと見つめているようです。 しかし、彼らは 実際に 既に天にあるものを仰ぎ見ています。
 
   それをはっきり示すのは 三つの印です。 先ず、キリストの後光と右側の間に サーモンピンク色を背景としている 黒字が見えます。 ギリシャ語で「sauter」即ち「救い主」と書いてあります。 そして キリストの後光の中にある十字架、また メナスとキリストの後光の間にある小さな十字架も 二人が、救いの神秘に 完全に預かっていることを示しています。 更に、修道院長メナスの後光と左側の間にある サーモンピンク色を背景としている ギリシャ語の黒字を見ますと 初めと終わりに 書かれている文字が 小さな十字架で 囲まれています。 この小さな十字架は メナスが 聖なる生き方を送った事と同時に 彼は もう死んでいる事をも思い起こさせます。 ここで「apa mena prosistos]」とよめます。 「番人であり 父メナス」という意味です。 メナスは イスラム教の攻撃に対するゆるぎない信仰を示しながら バウイト(Baouitの修道院や自分の指導に委ねられた修道者たちも守ったことを思い起こさせます。

   コプトの芸術の特徴と言えば 人物の頭がいつもからだの三分の一になっていることです。 それに加えて 目の大きさ、目のひとみ、そしてまゆに 強勢のあること、更にお月様の形をしている まぶたです。 メナスとキリストは 同じ方向に向かって この世の苦難や試練や災いを忘れています。 つまり 彼らは 地上のものではなく 永遠に留まるものを見つめています。ここで分け目が 黄色と茶色によって示されています。黄色は神の世界、天にあるもの、そして特に 神の栄光、神性、又 それに預かるために 聖とされた人の聖性を表します。 したがって、茶色は 地上の状態、人間の世界、人間の条件を表します。


   キリストはやさしく メナスの肩に自分の手をおきました。 これこそキリストの担いやすい 友情のくびきです。 イエスは 自分が選んだ人に 役割や責任や仕事を提案しません。むしろ 選ばれた人が キリストの親しい友となるように その人を誘います。 キリストの姿勢は 全て 平和、やすらぎ、やさしさ、喜びと共に キリストの威厳と尊さをよく現しています。 キリストの耳が見えない理由とは キリストは 聴く方ではなく、むしろ 教える方だからです。 「道、真理、命」であるキリストは 神のみ言葉として 命の言葉の本を持っています。 その本は 封印されています。
 
  というのは 「真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来られた」(ヨハネ18−37)キリストだけが 聖書と神の神秘を啓示する権威をもっているお方です。 キリストの髪の毛が長く、彼の服と同じ茶色で描かれています。 それは 又、 キリストが 神として 「今おられ、かつて おられ、やがて来られる方」を 意味します(黙示1−8)。 同様にキリストの足が見えないのも、彼の神性を はっきりと現すためです。


 
   キリストのそばに立っているメナスは 左の手に ただ 福音の一枚のページだけを持っています。 そこで示せれたことは 次のようです。 つまり、キリストは 私たちが入用とする御言葉を 毎日、一つずつ与え、また その言葉で 私たちの歩みを 一歩ずつ 照らすからです。 メナスは 右の手で祝福します。 彼は キリストによって強められ、支えられているからこそ 祝福することが出来ますが、彼は いずれにせよ キリストの名によって 祝福します。 メナスの手の指が キリストを指す理由とは 神の祝福が いつも、キリストによって、又、キリストを通して示される教会によって、更に キリストに選ばれた司祭によって 与えられていることを はっきりと  教えたいからです。

   キリストの親しい仲間となって、そして キリストに代わって 人を祝福する使命を受けているメナスは それに 自分が 全くふさわしくないと思い込んで とても恥ずかしそうな姿を見せます。 メナスの白い髪の毛がとても短いので 彼の耳が良く見えます。 メナスは 修道院の責任者として 他の人 誰よりも 神の言葉に 注意深く 耳を傾ける人となるべきです。 又、彼は 裸足で立っている姿は 福音を宣教するために 十分準備していることを示しています。


   貧しい姿で、ただ 謙遜に、キリストの横に立っているメナスは 明るい服を着ています。 彼は キリストによって内面的にも、外面的にも照らされているからです。 メナスの変容を表すものとは キリストの服の茶色の模様が 彼の体をまとっていることです。 このようにして ロマ人への手紙13−14「主イエス・キリストを身にまといなさい」と ガラテ人への手紙3−27「洗礼を受けてキリストに結ばれた あなた方は 皆キリストをきているのです」というパウロの言葉を思い出すことが出来ます。 ここで 又、司祭職の神秘性が 示されています。 キリストと司祭は 同じで ただ 唯一の一致の神秘です。 しかしこの事実は 目立つことではありません。 信仰の目だけが この司祭職とキリストの神秘的なつながりを見分けることが出来るからです。 そういう意味で キリストとメナスの体が 暗闇の中に置かれています。 二人の顔だけが 光の中に置かれて、彼らは一致して、詩篇36−10が教えているように 彼らは目を大きく開いたままで「光の中に光を見る」のです。

   さて、フランス語を話す司祭の「教会の祈り」というの本の中にある 次の賛美歌は 特に、このイコーンをよく描くと思いますから。

 
 唯一の牧者であるイエスよ、あなたの手は召されたこの人の肩におかれ、
    この司祭を通して あなたの群れを導かれる。
 あなたは この牧者をあなたの御姿に変えられる。

この司祭が、力と忍耐を持って歩むようにと
 あなたの手は絶えず彼を力づける。
 この司祭はあなたの御前で 消え去り、
兄弟の間に残るのは あなたの現存のすんだ輝きのみ。

教会はあなたから この司祭を受け入れる。
 彼は先頭に立って新しいエルサレムに向かって歩む。
 教会のかしらであるイエスよ、
この司祭は、共にいる全ての人を あなたに導く。


この司祭は、あなたを愛する人々の愛を
磁石のように あなたに引き付ける。
 そうして、自分自身をあなたに委ねる。 
あなたはこの司祭を聖霊のうちに聖別し、
既に、あなたの光は この司祭を包んでいる。


キリストと十二使徒の祭壇前飾り

  ロマネスク時代に作られたこの祭壇前飾りは、「ラ・セウ・ドュルジェイの板絵」と呼ばれ,   スペインのバルセロナのカタルーニャ美術館にあります。縦102cm横151cmのこの木のパネルは、栄光の中に座しておられるキリストとその栄光に与かっている12の使徒を紹介しています。  さて、このパネルは キリスト教のシンボルで囲まれています。

  先ず 上の部分では かしの木の葉っぱは 神の現存と神への崇拝を示し、又 信仰の強さ、変ることのない愛、永遠の命を現します。 かしの木の葉っぱの間にある いちじくの葉は原罪の罪と同時に 神の知恵、そしてキリストの受難と救いの神秘のシンボルです。

  パネルの左側のアカンサスの葉は 神の神聖、あるいは 神聖な場所の目印でありながら 神の言葉の真実性と 教会の教えの確かさ、正しさのシンボルです。


 最後に パネルの右側にある ざくろの実と葉っぱは キリストの復活と 魂の不死を示します。 又、一つのざくろの実の中に 無数の種が収められているので ざくろは キリストの教会、信じる人々の共同体のシンボルとなっています。

  さて、ご存知かも分かりませんが  昔 エルサレムの巡礼を行った 最初のキリスト者は お土産として 油の入った 瀬戸物の器を 持ち帰る習慣がありました。 その器には 巡礼者が発見し、訪れた ユダヤ教の会堂のフレスコの複製が 描かれていました。 巡礼者のお陰で 北アフリカ、中東アジア、ヨーロッパが 知らず知らずのうちに ユダヤ教の描き方の影響を受けました。 今、私たちが 見よとしている この12世紀のパネルは、特に、ユダヤ教の会堂の壁のフレスコの影響を受けていると思われます。

  例えば キリスト紀元後3世紀のシリヤのドウラ−ヨロポス(doura-europos)のフレスコを見ますと、描かれた人物の姿勢に キリスト教的な美術品の主題となる材料を 見つけることが出来ます。 このように、天の方へ 高く上げられた手は 普通 祈りや奉献や委ね、又、心の喜びと永遠の幸せを示します。
「詩篇635 主よ、命ある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。」
「詩篇
1412 私の祈りを 御前に立ち昇る香りとして 高くあげた手を 夕べの供え物として お受けください。」
「詩篇472 すべての民よ、手を打ち鳴らせ、神に向かって喜び歌い、叫びを上げよ。」

   着ている服の下に隠された手は 大抵 人の礼拝と聖なるものに対しての尊敬、又は 偉大な人物に対する 謙遜の態度を示します。 服のひだのとり方は 責任と権威、社会の中で 人が持っている立場や階級を表します。 最も責任のある人は ローマ皇帝のように 王座に座ったまま、自分の足を小さな足台に置かれた姿で描かれています。

   今、皆様がご覧になった 3世紀のユダヤ教のフレスコの特長は この12世紀の祭壇前飾りにも見受けられます。 先ず、中央のパネルを見ましょう。

  
  天と地の交わりを表す 二つの円を組み合わせた
8の字型のマンドルラに 栄光の王、宇宙万物の王 キリストは座っています。 虹の色で描かれた このマンドルラは 神の愛の豊かさと平和を 表現しています。 左の手に命の言葉の書を持ち、右の手を上げて キリストは 祝福の姿勢をとって、地球をご自分の足台とします。 ここで 預言者イザヤの言葉が思い起こさせられます:「主はこう言われる。 天は 私の王座、地は 私の足台。」(イザヤ661
栄光で包まれたキリストの衣服は まっすぐな線と 曲がった線を 調和よくつかったリズムの繰り返しによって キリストの高い立場を表します。 又、 この衣服の赤い色は キリストの王権と ご受難によって示された愛を 表します。 みどり色は「キリストが 栄光の希望」(コロサイ127)「救いの芽生え」であることを 思い起こさせます。 よく見ると キリストの手と足にある受難の傷跡が見えるでしょう。 これは「イエスは へりくだって、十字架の死に至るまで従順でした この為に 神は キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」というフィリッピ人への手紙の個所を思い起こさせます。(フィリッピ、289)  この十字架は 天の父を仰ぎ見るキリストの後光の中に見えます。

   さて、マンドルラと栄光の王キリストを取り囲む赤い色によって イエスの王権と神の限りない愛が表わされます。 その赤色の中に 14の黄色の花が散らされて、聖霊の賜物を表現します。 キリストが 聖霊を遣わす方である事を示すために、この花は 赤くなって 七つずつ 左と右に 立っている弟子たちの上に描かれています。


   キリストを中心にして 6人ずつの弟子たちが ピラミッドの形のように 左と右に並んでいます。 多分 この描き方は スペインのシロスの サン・ドミンゴ修道院の回廊の 10世紀の有名なレリーフをまねたと思います。 この弟子たちの並び方は 「キリストが 使徒たちを礎として、教会を建てます。、こうして 霊的な家に作り上げられた教会は すべての民に福音を告げ、救いの恵みをあらわす使命を受けている」ということを 具体的に見せています。
 

    12人は キリストを指で示しながら 彼をじっと見つめています。 ヨハネの証によると:彼らは「キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に、恵みを受けました」(ヨハネ116)。 その為に 弟子たちの衣服と後光の色は わざと 違っています。 というのは 弟子たち皆が キリストの栄光の光を浴びながら、確かに、キリストと親密に一致して、キリストに結ばれていますが 一人一人は 福音を宣教する為に 自分の性格と能力に応じて キリストの特徴を受けているからです。

    弟子たちが 裸足で 福音を述べ伝えます。 それは 弟子たちの心の自由と共に 福音的な貧しさ、神へのゆだねと信頼を表します。 左側に、ピラミドの土台となっている 3人の弟子たちが 礼拝、尊敬と謙遜の印として 着ている服の下に 左の手を隠しています。 まず 天の国の鍵を手に持つペトロ、若いヨハネとペトロに良く似ているその兄弟アンドレが見分けられます。 右側に ピラミドの土台となって、本や巻物を持っている 先ず、はげ頭のパウロ、そして、ヨハネによく似ている彼の兄弟ヤコブ、更に、福音史家マタイが見分けられます。

    このパネルを描いた人は 疑いもなく「キリストにおける教会の一致と聖化」を具体的に現そうとしました。 キリストの栄光の中に置かれている 12人の弟子の衣服と姿勢は それを見ている私たちに 強い印象を与えます。 そして 私たちの心の中で マタイによる キリストの最後の言葉が 響き渡ります。

   「私は 天と地の 一切の権能を授かっている。 だから、あなた方は行って、全ての民を 私の弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって 洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを すべて 守るように教えなさい。 私は 世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ281820


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僕 と 証人 − 司祭