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僕と証人 司祭。。。へどうぞ
誠実な友に値をつけることはできない。

シラ書 6,15
友はどんなときにも愛してくれる。

箴言 17,17
 
          まことの友情の手本とも 源ともいうべきものは、神が 人間と結ぶ友情である。 神は 御子イエスを 人間の世界に送ることにより、人々への友情を啓示する。 イエス・キリストも、あるたとえ話のうるさい友の しつこいねだりに悩まされている ひとりの友の姿を用いて、神の姿を 描いている。 それだけではなく彼自身、この神と人間との友情をもって 具体的に表現したといえる。 

   すなわち 彼は、金持ちの青年をいつくしみ、 ヨハネとラザロを特別愛し、更に このラザロを通して、やがて信仰によって 墓からよみがえるべき 全ての人々を愛したのである。   イエスには 生活をともにする 「仲間」 もいた (マルコ3,14)。 しかし、皆が 「友」 となったのではない。 たとえば、イエスは 弟子たちに向かっては 「これからもう私はあなたがたを僕とは呼ばず、友と呼ぶ」 (ヨハネ15,15) と宣言するが、ユダに対しては 最後まで 「仲間」 という語を使っている。 
      
                          
                            
                                                                           

「神は愛である」

  
         至聖なる神、全能の神が いったい とるにたりない罪深い人間を愛するために 身を低めることがありえるのか、もし それが可能だとすれば、人間は この愛にいかなる愛をもってこたえるべきなのか。 又 神の愛と人間の愛には どんな関係があろうか。 聖書は、人間のこのような宗教的不安に明白に答える 。そのために まず、神は自らすすんで 人間と愛の対話を おこなっているということ、次に 神は、この愛に基づいて 人間に相互愛を教え、かつ 義務づけているということを教える。

   神の愛は まず 友情というかたちで現れる。 神は 異教徒のなかから ひとりの人物アブラハムを選んで、友とする。 彼は、神から心を打ち明けられるほど 親しい間柄となる。 モーゼが 神に誠実でありえたのは、神に召された日から生涯を通して、友人と話すように 神と語り合い、神と親しさを 増していったからである。 神は 彼に憐れみを施す愛と、その無限の慈しみとを啓示している。

   予言者たちも 又、神の腹心の友であり、神の選びによってとらえられ、かつ 個人的に愛されている。 追放されてのち、さまざまな試練によって 清められたイスラエルの民は、神と友になる生活は 愛の対話であることをますます悟ってゆく。 そして さらに、神の愛は  イスラエルの民だけではなく 異教徒にも、つまり 全人類に及ぶという考えが少しずつかたちづくられてくる。



             旧約の長い予言と約束の時代の後に ついに 神は,その独り子イエスを通して 自らを表わす。 つまり、人類待望のメシアであるだけではなく、ご自分の子、しかも 愛する子 であるイエスのうちに、神は その愛を現わしたのである (ローマ8,39 - ヨハネ3,1)。 父なる神の愛は、ここに最高度に示される。 神の愛の賜物をうけるには なんの条件も前提とされないからである。 ところで この愛は、決定的なものであり、イエスの地上生活が 終わってからも働きつづける。 「神は独り子を与えるほどこの世を愛した」 (ヨハネ3,16)のは ただ人間が永遠の命を得るためである。

   イエスの存在、イエスの死と復活そのものが、神の愛の具体的な啓示である。 言い換えれば イエス・キリストは, 神と息子としての愛に満ちた対話を行うと同時に 人々の前にそれを証する人間である。 この神であり、人であるイエスを通してこそ, 神を愛し、かつ 神に愛されるのである。 イエスの全生涯を通して、自分が 神への対話と人間への対話のうちに生きていることを証する。 

   十字架の上でイエスの 父なる神への従順と 人々への愛があますところなく 現わされている。 十字架の神秘によって 神は、完全に栄光を受け、かつ イエスと共に 全人類がひとりの例外もなく、神の愛を受けるに値するものとなる。 又 神と人間は 一致しながら 相交わることが 可能となる。 そこで、人間のなかに 「新しい心」 を造り出す聖霊の賜物が 必要になってくる。

   人間はすべて、 神に向かって 「父」 と呼びかけ、キリストの栄光を現わすために、聖霊を必要としている。 聖霊によってこそ、信仰者の心のなかには 神の愛が そそがれるのであり (ローマ5,5)、この愛は 彼らを しっかりととらえ、もはや なにものもこれから彼らを引き離すことが出来ない。 そしてこの愛は、「自分が完全に知られているように完全に知る」(1コリント13,12) という神との決定的な愛の出会いへと人々を準備する。 信仰者は、このように 聖霊によって 神との愛の対話のうちに生きるように導かれながら、神の奥義 そのものに近づく。


                         

 


主は とても小さくなられた
きみが 優しさを込めて
主を見るように

主は 幼い子供になられた
きみが 胸に
主をいだくように

主は 君に似たものとなられた
きみが もはや
主を恐れないように

主は とっても弱いものになられた
きみの信仰で 
主を慰めるように

主は  乞食をされた
きみの愛によって 
主の飢えを満たすように

主は みじめな姿になられた
きみが 主に共感を持つように

きみ自身の内に 
主を受けるようにと


(神への道に まかれた小石  グイノ神父作)より

主よ、私の幸せ
それは あなたを見ることなく
 あなたを愛すること
昨日 今日 そして明日も

私の喜び 
それは あなたに従って歩むこと
その道がどこへ通じるかを知ることなく
いつ 端っこに行き着くかを
知ることもなく

私の忠実さ それは 
あなたの御言葉を信じること
御言葉を土台にして
 私の人生を築くこと
あなたの真理を 
一度もつかめなくても

私の希望 それは 信じること
この希望は けっして
落胆することはない
そして この希望を
あなたの現存で満たして下さる

私が希望できるものを
 ぐんと飛び越えて・・・


(神の栄光を歌う真珠の首飾り グイノ神父作)より
         



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