頼久寺の庭園は、蓮莱式枯山水庭園で、愛宕山を借り景し白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現したお庭である。
水琴窟の創始者といわれる小堀遠州公の作庭によるもので、昭和49年に国の名勝庭園に指定された。
兵庫県加東市にある大きな経塚を守っているお堂です。
熱心な信者さんにより水掛け水琴窟が奉納されました。
泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した曹洞宗の寺院です。
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利、浅野、朽木、水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
江戸時代初期の正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建した。
播磨の国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓がある。浅野家、赤穂浪士に関する展示物が収蔵されている義士宝物館が併設されている。
天柱山安国頼久寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。
後に永正年間(1504年)備中松山城主、上野頼久公は寺観を一新した。
頼久公は、大永元年に逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。平生はただ頼久寺と呼んでいる。
義士に敬慕の念を込めて水琴の音を捧げる